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■大学芋はなんで「大学芋」という名前?「大学」+「芋」=「大学芋」と単純にはいえない。そう考えると、ことばには不思議がいっぱい。「大学芋」をきっかけにことばについて考えるブログです!
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2014年01月11日

2014年もよろしくお願いします

だいぶ遅れましたが、あけましておめでとうございます。
早いもので新年になってもう10日も経っているのですね。新年になってからの一週間は、わりと集中して研究ができました。そういう意味ではよいスタートが切れたと思います。

去年の今ごろは博士課程の受験を控えていたので、とにかくまずは合格せねばという感じでした。おととしは修士論文の提出を控えていたので、とにかくまずは提出せねばという感じでした。そう考えると、久しぶりに落ち着いて新年を迎えることができたように思います。修士課程修了できなかったり、博士課程に進学できなかったりすると、研究を続けることができないので、今こうして博士課程の学生として安心して研究できる環境にいられるのは、それだけでありがたい限りです。

博士課程は、修士課程までとは別の大学に進学したので、期待も不安もあったわけですが、今は本当にこの大学に来れてよかったなと思っています。大学院生もいい人ばかりで研究室の雰囲気もとてもいいですし、指導教授はもちろん、それ以外の先生方も、研究者としても人間としても尊敬できます。今は非常勤講師もしているので、どうしても大学にいられる時間が長くないのが残念です。

今年は、博士課程も2年目だし、もっといろいろなことに挑戦できたらと思います。今年もよろしくお願いします。
ラベル:日記
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2013年12月31日

語学の上達のために必要なことを考える

勉強に関して、次のようなことをよく聞く。一度に5時間勉強するのをたまにしかやらないよりは一日10分でも毎日やるほうがいい、というアドバイスだ。たしかに、一夜漬けの勉強をするより、たとえわずかな時間であっても継続的にやったほうが、記憶の定着にはよいだろう。しかし、少なくとも語学に関しては、「毎日ちょっとずつ」型の勉強には危険も潜んでいると思う。

ここでは、語学に初級、中級、上級があるとして話を進めてみたい。なお、何をもってして中級と呼べるかなどの問題はあえてしない。中級の中にも実際には幅があるだろうが、なんとなくのイメージでこれらの用語を使う。また、その言語が実際に話されている場所で生活するなどの状況も考えないことにする。

初級から中級に上がるのは、ある程度時間をかければできる。中級から上級に上がるのが難しい。中級は、ちょっとサボるとすぐに衰えて初級並みになってしまうし、かといって一日10分程度の勉強だと、初級まで引き戻されなかったしてもなかなか自分の語学力が伸びていると実感できない。初級のときに比べると、力が伸びるスピードは落ちるからだ。そうすると、だんだん今やっていることが無駄なんじゃないかと思い始めて、勉強が継続できなくなる。実際にはスピードが落ちただけで無駄ではなく、継続していればあるとき自分が意外と前進できたことに気づく瞬間が訪れるのだが、その前に不安になって勉強を中断してしまう人もいるだろう。そんな感じで、語学は初級と中級を行ったり来たりしている人が多いと思う。

ちゃんと力がついたと実感するためには、あるときに一日5時間を2週間継続するといったことが必要なのではないかと思う。そうすると、一段階上がったことが感覚としてわかって、自信になる。その後は徐々にペースを落として毎日少しずつ勉強する形にしてもかなりの効果があると思う。勢いをつけたことで十分定着させられなかったことを補うのには、そのぐらいのペースがむしろちょうどよいのかもしれない。そしてまた短期集中の時期をつくる。そういったことを繰り返していくうちに、中級の壁を突破して、上級に進めるのではないだろうか。一度上級になると、そう簡単には中級には戻らない。そのため、多少時間をあけても中級のときほどは深刻にはならない。ただ、何もしないと確実に衰えていくので注意は必要だし、上級がさらに高みを目指そうとすると中級以上に意識的に勉強しないといけないだろう。

ちなみに、このことは語学以外の勉強でも当てはまると思うが、語学は特に中級を初級へと引き戻す引力が強い気がする。他の勉強はもうちょっとその引力が弱い印象があるのだけど、あくまで印象なのでそれ以上のことは言えない。

そんなことを書いているうちに、大学受験のときにお世話になったある予備校の先生を思い出した。その先生は、授業中に「塵も積もれば山となると言うけど、塵なんてフッと吹けば飛んでなくなっちゃうよ」と言ったのだ。だから少しずつ勉強しても意味がないということではなく、人生には、簡単に吹き飛ばされないぐらいの高さの山を一気につくらなきゃいけない時期があるということを伝えたかったのだと思う。当時の自分にとっても記憶に残る一言であったが、今はさらに実感としてわかるような気がする。

自分の目的や今いるレベルにもよるが、語学にはちょっとずつ継続するという「守り」の勉強と一気に押し上げる「攻め」の勉強が両方必要なのだろう。うまく使い分けて語学の上達を目指したい。

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ラベル:語学 日記
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2013年11月30日

英語で論文を書く(2):同じ表現を何度も使わないために

英語で論文を書いていて、内容に問題があるわけではないのに、立ち止まらざるを得ないときがある。同じ表現を何度も使いそうになっているときだ。

英語では、同じ内容を言うにしても、別の表現で言い換えることが多い。日本語の場合もそうかもしれないが、英語のほうがその傾向は強いだろう。しかし、一度使った表現を繰り返さないで別の表現を使うというのは、なかなか難しい。ちょうどよい表現を探すのに、けっこう時間がかかるものだ。

英文中でどのように表現の言い換えがなされているのか、実際に少し見てみよう。自分で英語を書くときのヒントになるはずだ。英語で論文を書くという点でいえば、今回の記事は理系の人にも見てもらえるかもしれないので、理系寄りの文章を取り上げてみる。以下の文章は、SCIENTIFIC AMERICAN 60-Second ScienceというウェブサイトのDo These Microbes Make Me Look Fat?という記事から。いくつかの単語には日本語訳を添えておく。

Researchers found that mice given gut microbes from obese humans became fatter than those that got microbes carried by slim folks. When the husky and lean mice shared microbes with each other, the bigger ones picked up some of the beneficial gut flora?and had improved metabolisms.

gut: 腸 microbe: 微生物 obese: 太り過ぎの husky: 体格のよい lean: やせた flora: 細菌叢(細菌の集合) metabolism: 代謝


このわずか1パラグラフの中にも、同じ内容を別の表現で言い換えている箇所がいくつも見つかる。

(1) mice given gut microbes from... / those that got microbes carried by...
(2) obese humans / slim folks
(3) obese / husky
(4) slim / lean
(5) gut microbes / gut flora

(1)であれば、mice given gut microbes from... と書いた後にthose given gut microbes from...と書いたとしても内容としては問題ないだろうが、そのような単純な繰り返しは避けられ、giveと意味上関連するgetが用いられている(AにBが与えられる(be given)=AはBを手に入れる(get))。(2)ではobese humansとの対比でslim humansと言ってもよさそうだが、実際にはhumansの代わりにfolksが使われている。さらに、(2)で出てきた形容詞obeseとslimは、それぞれ似ている意味の語である(3)huskyと(4)leanに置き換わっている。(5)gut microbesとgut flofaもほぼ同じ内容と考えてよさそうだ。

(2)のように、humansをfolksに言い換える場合なら、類語辞典(シソーラス)を見ればよいかもしれない。しかし、(1)のように単純な単語レベルではない言い換えは、なかなか思いつかない。うまい言い換え表現を見つけたら線を引いたりして使える英語表現のレパートリーを増やしていくというのが、地道だが確実な方法だ。

また、huskyは「体格のよい、がっしりした」という、どちらかといえば肯定的な評価を伴う語(アメリカ英語)だが、この文脈では肯定的な意味合いは感じられない。言い換えにあたっては、このような評価的な側面が捨象されてしまう場合もある。そういった点を意識しながら英文を読むのも勉強になる。

あとは、自分でよく使いがちな表現を予め覚えておいて、それに似た表現を見つけたらメモするのも効果的だ。自分自身についていえば、in terms of...をよく使うことに気づいたので、それ以外にどんな表現があるのか気にするようになった。そうやって気にしていくと、代用できそうな表現がいくつも見つかってくる。たとえば、以下のような表現だ。

(6) in the light of...
(7) in relation to...
(8) from the perspective of...
(9) with respect to...

おかげで、最近はin terms of...に頼りすぎずにすんでいると思う。もちろん、これらの表現がいつでも置き換え可能なわけではないだろうから、いっしょに使う動詞なども合わせて確認するようにしている。

高校までの英語の授業では、名詞の繰り返しを避けるための代名詞(it、one、that/thoseなど)については習う。上記に取り上げた英文でもmiceがthoseやonesに置き換わっており、こうした代名詞の使い方を学ぶのは大事なことだ。しかし、今回紹介したようなタイプの言い換えについては、あまり学ぶ機会がない。大学で英語を書くようになってみてからぶつかる壁かもしれない。類語辞典やGoogleの検索で表現を探すという、論文を書くときの工夫はもちろん必要だが、普段英語を読んでいるときにできること、つまり、書くときのことを意識して表現のストックを増やしておくことも、表現力を磨く上で重要なのではないかと思う。

ちなみに、SCIENTIFIC AMERICAN 60-Second Scienceは、理系で使う英語に触れるにはとても便利。1分間でそれなりにまとまった内容を学べて、しかもPodcastでどこでも勉強できるので、ぜひ利用してみてください。

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2013年10月05日

英語で論文を書く(1):外国語で書くからこそ得られるもの

大学ではいわゆる英文科に所属していたこともあって、英語でレポートを書く機会がたびたびあった。卒論も英語だった。大学院生になってからの論文は、英語で書くことの方が多い。英語で論文を書くのは大変で、なかなか一日に書けるページ数も少ない。辞書を引いたり英語の文献を読み返しながらやっていると、わずか数行書くのにだって、一時間ぐらい、場合によってはそれ以上かかるときもある。

英語に限らず、外国語で論文を書くのは骨が折れるが、外国語で書くからこそ得られるものもある。日本語で書くと、内容がボロボロでも、案外何かしら書けてしまう。しかし、外国語ではそういったごまかしができないから、内容に意識的になる。

実際、英語で論文を書いていて筆が進まないとき、その原因は英語そのものというよりは中身にあるという場合がけっこうある気がする。(「筆が進まない」と言うと、なんだか古風な感じもするが、他に変わる表現がなかなか見つからない。)論じる順番がわかりにくかったり、論理に飛躍があったり、主張の提示の仕方に自分自身で納得していないことがわかったり。そういうときは、一度書くのをやめてノートに論文の要旨を書き出してみる。そんなことをしているうちに、ちょっとずつ内容が整理されていく。

書いているときに作業を中断してノートを引っ張り出すのは、どんどん完成が遅くなるように思えて、気が重くなることもある。だったら書く前にもっと内容を考えればいいじゃないかとも思うが、書き始めてみないと、自分の論にどんな問題があるのか気づかなかったりする。実際に文字にしてみると、だいたい大丈夫だと思った考えが案外いい加減だったと思い知らされる。それは、日本語で論文を書くときでもそうなのだけど、外国語だと余計にそうなる。

そうやって、試行錯誤しているうちに、ちょっとずつ内容がよくなっていく。その結果、日本語のときよりもよい論文が書けたかもしれないと思うことがある。時間はかかるが思考の訓練になる。その意味では、外国語で書くことはけっこう創造的な営みなのかもしれない。

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ラベル:日記 研究 語学
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2013年09月14日

認知言語学キーワード紹介(4):ゲシュタルトと構文

cat foodという表現は、catとfoodから成り立っており、ネコの食べ物であるキャットフードを意味する。表現全体の意味が、その構成要素の足し算によって導くことができるとする考えのことを「構成性(合成性)の原理」(principle of compositionality)と呼ぶが、cat foodにはそれがよく当てはまるように思われる。しかし、言語表現の意味が、いつでも構成要素の単純な組み合わせだけで説明できるとは限らない。次のような表現を見てみよう。

(1) breakfast person(朝食派の人)
(2) cat person(ネコが好きなネコ派の人)
(3) night person(夜更かしをする人、夜型の人)

(1)-(3)では、breakfastやcatとpersonを足し合わせるだけでは導けないような「-派、-主義」といった意味合いが出てくるのである(ちなみに、ネコが食べるものを何でもcat foodというわけではないので、cat foodでさえも単にcat+foodと考えるだけでは十分でないと言える)。

これらの表現は、構成性の原理からすると取扱いに困る例である。しかし、単純な足し算が成り立たないことは、人間の知覚についていえば決して珍しいことではない。たとえば、オーケストラの音楽では、バイオリン+トランペット+フルートなど各楽器の音の単なる集まりを超えた、ひとつの曲を認識するだろう。このような人間の知覚に着目し、ゲシュタルト心理学は「全体は部分の総和以上である」と主張した。全体には、部分になかった「まとまり」、つまり「ゲシュタルト」(gestalt)が現れるのである。認知言語学は、このようなゲシュタルト心理学の考えを取り入れており、言語においても、複合的な表現が、部分の単純な組み合わせを超えたゲシュタルトをなすと考えている。言語にもゲシュタルトがあると考えると、(1)-(3)の各表現に、部分の足し算では得られない意味があっても問題ないことになる。

ゲシュタルトを考える上で重要なのが、(i) 個々の部分よりも先に全体が知覚されて、(ii) その全体を前提とした上で各部分の位置づけが規定される、ということだ。そして、その部分の位置づけを決める際に大きな役割を果たすのが、ある種の「型」である。

音楽についていえば、メロディーを聞いたら、まずはオーケストラだとかロックバンドだという型を踏まえて、それから各楽器の音色や技巧に注目するだろう。

(1)-(3)についても同じように考えてみよう。まず「名詞+person」という型を先に認識して、そのあとで、「名詞」の部分の位置づけが決まる。その型に「-派、-主義の人」という意味があると考えれば、(1)-(3)をうまく分析することができるし、この型を利用すれば、「名詞」の部分を変えることでcoffee person(コーヒー好きの人、コーヒー党)やcity person(都会派の人)といった表現をどんどん作り出すこともできる。

認知言語学は、表現の型の役割を重視し、これを「構文」(あるいは「構成体」)(construction)と呼んでいる。(1)-(3)は複合語の例であったが、構文という考えはもっと大きな単位についても当てはまる。構文については、また次回改めて紹介したい。


最近は認知言語学に関する入門書は数多くありますが、その先駆的な本として河上誓作編著『認知言語学の基礎』が挙げられます。1996年に出版されたので、当然21世紀の認知言語学の発展については書かれていませんが、それまでの認知言語学の主要な研究についてはわかりやすく紹介されています。もとの本や論文から例文・図をそのまま引用していることが多いので、80年代、90年代の文献を読むときのガイドとしては今でも便利だと思います。
認知言語学の基礎 -
認知言語学の基礎
河上誓作
研究社


本書の第1章はゲシュタルトの説明から始まります。他の入門書に比べると、比較的ゲシュタルトについて割いているページが多い印象。なお、例文(1)-(3)は3ページに登場します。

関連記事:
認知言語学キーワード紹介(1):捉え方
認知言語学キーワード紹介(2):カテゴリーとプロトタイプ
認知言語学キーワード紹介(3):メタファーと経験基盤主義
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2013年08月31日

iPad miniで読書

iPad miniを買った話を前にしたのですが、そのときは全然iPad miniそのものに触れなかったので、今回はちゃんとiPad miniに関係のある話をします。

iPad miniを買った理由の一つが、本や論文を読みたいからでした。はじめはどうやって読むのかよくわからなかったのですが、だんだんわかってくるにつれて快適に読書ができるようになっていきました。

本を読むときには、AmazonのKindleアプリを使っています。Kindleといえば、Kindle端末(Kindle PaperwhiteやKinlde Fire HD)ですが、アプリを使えばiPad miniなど他社のタブレットでも利用することができます。AmazonのウェブサイトでKindle版の本を購入すればすぐに読めます。アプリ自体は無料です。

PDFファイルの論文を読む場合は、GoodReaderというアプリが便利です。このアプリは、単にスマートフォンやタブレットでPDFを閲覧できるようにするだけではなく、ファイルに線を引いたりメモする機能が充実しています。有料のアプリですが、その利便性を考えれば問題ない値段だと思います。

iPad miniで読書をしていていいなあと感じたことを3点ほど挙げてみます。ちなみに、iPad miniに限った話ではないので、以下では単にタブレットと書いておきます。

(1) 持ち運びが楽
本はなかなか重量があるので、一度にたくさん持てないですし、数冊持っていると移動するだけで疲れることもあります。タブレットで読む場合は、タブレットだけを持っていればいいので持ち運びがとても楽です。ただ楽なだけではなく、いざというときにも役に立ちます。外出先で「そういえば、この話題、あの本にも書いてあったな」と思ったとき、タブレットにその本が入っていればその場で確認できます。家に帰ってから調べようなどと思っているうちに忘れたりするので、これはかなり便利です。

(2) 読書をするときの心理的なハードルを下げる
紙の本の場合は、机に向かってさあ読むぞと気合を入れてから読むという感じでしたが、タブレットなら場所を選ばないので、電車とか寝床でも気軽に読み始められます。普段読む本は分厚い専門書だったり、ホチキス止めのコピーした論文(バラバラになりやすい)だったりするので、どこでも読めるというのは、本当にありがたいです。

(3) 寝ながらでもページをめくったり線を引いたりできる
睡眠を取るちょっと前とか、疲れたときとか、寝ながら本を読みたいときってありますよね。そういうとき、ページをめくるのがちょっと面倒だったりします。なんとかページをめくれても、大事なところに線を引こうと思ったら座った状態でやるほうが楽ですね。タブレットなら、画面をタッチするだけなので、ページも線を引くのも簡単です。線を引く場合は、紙のときよりきれいに引けますし、やっぱり線を消したいと思っても、修正液で汚くなったりする心配もありません。

タブレットで読書する際の難点のひとつは、本の場合、紙媒体ほど品揃えが充実していないということでしょうか。英語の本なら、日本語の本よりはKindleで入手しやすいかもしれないですが、それでもまだ紙でしか発売されていないものも多いです。ただ、Kindleで出ていれば、紙よりも多少安く手に入るので、そこはありがたいところです。

論文の場合、最近はウェブ上での提供も増えてきたので、PDFで入手するのは比較的楽になっています(むしろ、最近は図書館に行くより自宅でパソコンから論文を入手することのほうが多いぐらいです)。古い論文だったり大学が契約していないものになると、図書館でコピーしなければならない場合もありますが、スキャンできるならあまり問題にならないかもしれません。本でも裁断してスキャンする人が増えてきてますが、最近はその気持ちがわかるようになりました。スキャンの代行業者もあるので、それを利用する手もありますね。

今回はiPad miniで読書をするときの感想でした。iPadよりもサイズが小さく軽いので、外出先でとか寝ながらの読書を考えたら、iPad miniのほうがおすすめです。タブレットで読書をしてみたいがまだ体験したことがないという人の参考になれば幸いです。

iPad mini 16GB Wi-Fiモデル ブラック&スレート MD528J/A / アップル
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ラベル:日記
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2013年07月31日

おれたち語、わたしたち語:若者ことばについて考える

「もっと個性的な生き方したいと思ってるから、ことばだってもっと自分の自由に使いたい。今からみんなと同じ日本語やめて「おれ語」しゃべるわ。ポポ、ンポテコポ」などと言われたら、困ってしまう。そんな人とはコミュニケーションができない。

これが意味することは何か。それは、(日本語などの)言語は個人のものではなくて、みんなに共有されているものでなければならない、ということだ。伝えたい内容は何であれ、伝える道具である言語は、少なくとも、伝えたい人自身と伝えたい相手の間では相互に理解可能である必要がある。

これは、よく考えるとおもしろいことかもしれない。個人の体験は一人一人に特有のものである。そして、他の人とは違う「おれ」や「わたし」を認めてほしいという欲求がある。誰かに自分の体験談を話して、「あぁ、そんな話を別の人からも聞いたことがあるよ」などとと言われてしまったら、がっかりするものだ。それにもかかわらず、伝えるための道具は好き勝手な物を使っていいということにはならない。「みんなの道具」を借りなければ、話を理解してもらい共感してもらうことはできないのだ。

言語のそのような性質からいって、自分特有の(他の誰にも伝わらない)「おれ語」や「わたし語」というのは存在し得ないのだが、「おれたち語」や「わたしたち語」という形でならある程度は成り立つ。その一つが「若者ことば」である。

若者ことばを「ある特定の若者のコミュニティでしか通じないないことば(づかい)」だと捉えると、それは言語のみんなが共有しているという性質の一部を犠牲にして、そのコミュニティの個性や独自性を優先させたものだと言ってよいだろう。言語はだれかに何かを伝えるためにあるのだが、伝わらない相手をあえて作り出すことによって、「おれたち」「わたしたち」の結束力は高まるのである。そう考えるほうが、若者が無知なせいでことばが乱れていると言うよりも、若者ことばが生まれる理由が理解できるように思える。方言がなくならないのはなぜか、ウェブ特有のことばづかいが生まれるのはなぜか、という問いにも同じ答え方ができそうだ。

「みんな」の一部に還元されたくない、でも一人で孤立するのは嫌、「おれたち」や「わたしたち」という形でならつながりたい、そんな欲求があるなら、「おれたち語」「わたしたち語」としての若者ことばは生まれ続けるのだろう。
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2013年06月30日

英語の間接疑問とカンマ:間違いの背後にあるもの

先日、高校の授業で間接疑問を扱った。一般的に、疑問文が文の一部として取り込まれた場合、それは間接疑問と呼ばれる。たとえば、(1)は独立の疑問文だが、それを文の中に取り込むと(2)になる。

(1) Who is he?(彼は誰ですか)
(2) I don't know who he is.(私は彼が誰であるか知らない)

なお、whoやwhatなどの疑問詞を用いない疑問文を取り込む場合は、ifもしくはwhetherを用いる(ここでは、全部まとめて間接疑問として扱う)。

(3) He asked me if [whether] I was going back to Japan.(彼は私に日本へ帰るのかと尋ねた)

高校での間接疑問のポイントのひとつは、 独立の疑問文のときと異なり、平叙文と同じ語順になることだろう。というわけで、英作文の問題を出してみた。ちゃんとした語順で書けているか確認したかったが、やっぱりそのあたりの間違いが多かった。

あまり想定していなかったのは、途中にカンマ(, )を入れる生徒がいたことだ。(4)のような日本語を英語に直す場合、解答例として(5)の英文が挙げられるが、(6)のように書いてくる生徒がわりといた(もちろん、もっといろいろと間違えている生徒もいるが)。

(4) 今日郵便局が開いているかどうか教えていただけませんか。(問題)
(5) Could you tell me if the post office is open today?(解答例)
(6) Could you tell me, if the post office is open today?(誤答例)

英語では、この場合カンマは不要である。授業にはそのような例は出てこなかったはずだ。インプットの素材として与えるものが正しいものでも、いつの間にか思い込みや勘違いが入り込んでしまい、アウトプットの段階でおかしなことになっている、そしてそれに気づかないというのは、よくあることだ。講師になってからは特にそれを実感しているので、間違いが多そうなところは先回りして注意を促そうと思っているが(いつも先回りできるわけではないけど目標にはしている)、今回はそういう間違いの可能性に事前に気づけなかった。

もしかしたら、生徒は実際の会話を直接引用する場合(直接話法)と混同したのかもしれない。さきほどの(3)を直接話法で示すと(7)となり、カンマを必要とする。こういう混同があるなら、今度はそのあたりのことも説明しようかと思う。

(7) They asked me, "Are you going back to Japan?"

そして、個人的におもしろいなと思ったのは、実はドイツ語では(6)のような表現が正しいということだ。(4)の問題文をドイツ語にすると、(8)となる。

(8) Können Sie mir bitte sagen, ob die Post heute offen ist?

細かいところは置いておくとしても(können=can、sagen=tell、ob=if、heute=today、offen=openのような対応関係がある)、ドイツ語では、この場合カンマを用いるのがわかる。実際にこうやってカンマを使う言語もあるわけだから、生徒の間違いもそんなにおかしいものだとは言えなくなる。ドイツ語を母語とする人だったら、生徒と同じような英語の間違いをしているかもしれない。

生徒の英語の間違いは、一見すると、正確に覚えておらず、勘違いして勝手なことをしているだけのようにも思える。だが、その間違いは、(a) 似ている表現からの類推をしていたり、(b) 実際に言語としてはありえる(ただし英語にはない)ものを思いつくような、言語に関する鋭い直観を働かせた結果なのかもしれない。だとすれば、たとえ英語のテストでは間違いであったとしても、そこで使った発想は大事なものだと伝えたい。そういった発想でうまくいったりうまくいかなかったりという試行錯誤をすることで、そして、うまくいかなかったところは実際にはどう表現するのかをきちんと覚えることで、語学は上達するのだと思う。

関連記事:
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2013年06月15日

勉強と研究:今後やること

6月も半分終わりました。博士課程に進んでからもう2ケ月半です。ぼーっとしていたわけではないですが、やりたいことをちゃんと意識しておかないと、どんどん時間が過ぎ去っていくなあと思います。

ということで、今回は自分の頭の中を整理する意味も込めて、博士課程でやっていくことをメモするついでに、簡単に紹介しようと思います。以下では、知識や技能を身につけることを「勉強」、身につけたことをもとに自分なりに言語の分析をして、その成果を公開することを「研究」と呼ぶことにします。

(1) 勉強
a. 語学:英語、ドイツ語
b. 言語理論:認知言語学や機能主義言語学(認知・機能言語学)、生成文法など
c. コーパス言語学、自然言語処理
d. 言語類型論、対照研究
e. 認知科学、心理学

(2) 研究
a. 何をどのように分析するか考え、実践する
b. 学会で口頭発表をする
c. 論文を書いて投稿する

まず肝心なことは、(1a) しっかり英語の勉強をすること。他の大学院生の学会発表を聞いたり、いっしょに勉強することも多いし、業績の数という指標もあるので、研究能力についてはある程度他人と比較しやすでしょう。しかし、英語がどれくらいできるかは、あまり比較できる機会がないので、いつの間にか差がついているところだと思います。英語のことをよくわかっていないと、間違った分析をしていることに気づかない可能性も出てきますし、英語をちゃんと教えることができるかどうかにも直結しますし、もっと英語学習の時間を取らないとなあと思います。英語とドイツ語の比較もおもしろそうなので、ドイツ語の力もつけておきたいのですが、なかなか時間が取れず...

言語学の勉強については、理論的な側面 (1b) と、どちらかといえば技術的な側面 (1c) があります。実際には、コーパス(コンピュータで読み込むことができる形態のテクストの集積からなるデータベース)を使うかどうかを判断する時点で、特定の言語の見方が関わってくるので、(1c) も理論とは切り離せないのですが。また、コーパスを使うにしてもコーパス言語学と自然言語処理では、関心というか目標が違うので別の分野といえます。コーパス言語学もまだまだな上に、自然言語処理には疎いのですが、できるだけ幅広く研究のヒントを得られればと思います。

身近に英語以外の言語を研究している人もいることもあって、(1d) 言語類型論や対照研究には、以前よりも興味が増しています。英語の分析をするにしても、他言語の知識があると新しい糸口が見つかったりするものです。そして、自分の研究で直接参照しないとしても、(1e) 認知科学全般、心理学との接点を探ることは、自分自身が何を明らかにしようとしているのか、それはどのような意味があることなのかを把握する上でも重要だなと感じます。

研究をすると一口に言っても、(2a) 人知れずコツコツやる部分と (2b,c) それを公開する部分とがあります。どんな学会で何回ぐらい発表するかなどは人によるので、自分自身でペースを管理する必要があります。学会で口頭発表できるなら、研究内容はしっかりあるはずなので論文も書けるはずなのですが、口頭でサッと言えたことでもいざ文字にしようとするとうまく言葉が思いつかなかったりします。そんなときは、言葉の問題と言うよりは論理展開がスムーズでなかったり分析の詰めが甘かったりすることに気づいたり。論文はごまかしがきかないので、より真剣に自分の研究に向き合うことになります。

英語講師としての仕事もあるので、あんまり欲張ることもできず、どれにどれくらい時間を割くかというのが問題になります。大学の授業や大学院生同士の勉強会でカバーできない (1a) 語学の時間を確保しつつ、 (2) 研究(特に論文)を地道に進めるというのが、今の自分にとっては必要かなと思います。がんばろ。
ラベル:日記 語学 研究
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2013年05月29日

英語の勉強量なんて、みんな同じようなもの?

先日、iPad miniを買いました。そのときの店員との会話が、いろいろと考えさせられるものだったので、ここに書いておこうかと思います(iPad miniそのものの話題ではないです)。

iPad miniをほしくなった理由のひとつが、電子媒体で英語の本や論文を読むことだったので、店頭で画面の見やすさを確認してみました。ためしに、Google ブックスで、言語学の本を読んでいたところ、店員が話しかけてきました。

「iPad miniに興味おありですか」「ええ、ちょっと実際に触ってみたくて」「操作しやすいですし、軽いし、おすすめですよ」みたいな感じで会話が進みました。

その後、店員がiPad miniの画面を見て一言。「あ、英語お読みになるんですか。私は全然読めないですねえ。私も大学出てるんで、たぶん同じくらい英語の勉強してると思うんですけどねえ」

なんというか、あなたも私も大学での英語の勉強量は同じくらいのはず、という言い方にちょっとびっくりしてしまいました。まあ、会話を続けるためにとりあえず言ってみただけかな、とは感じつつも、おいおい、同じじゃないだろうとちょっとツッコミを入れたくなりました。

自分としては、英語の勉強量が十分だとは思っていません。周りには英語がよくできる人が何人もいるので、その人たちに比べたらまだまだです。ただ、それでも、普通に大学生活を過ごした人よりは英語の勉強をしたつもりです。もちろん、店員からしたらそんなこと知る由(よし)もないですし、相手が高校の講師だとか英文法を専攻している大学院生だなんて思いもしないだろうから、別にいいかなとも思ったのですが、妙に引っかかるものがありました。家に帰ってからも気にしているうちに、次のような考えが浮かびました。

英語の運用能力が高い人は、それ相応の努力をしているなと思います(本人は趣味で楽しんでいて、努力とはあまり思っていないかもしれませんが)。ただ、大学以降は、勉強しているかどうかの差が、わかりにくいと言えばわかりにくい。高校生のときのように、期末試験や大学入試という結果の比較が容易な試験があるわけではないので。なので、身近に英語がよくできる人がいないと、勉強量の比較をする機会がないために、人によって英語の勉強量が全然違うという実感があまりないのかもしれません。今日の店員は、そんな人の一人では。そして、もしかしたら、そういう人の中には、英語ができないのを教育のせいにしすぎる人がいたりするのでは。現状の英語教育にも改善点はあると思いますし、家電量販店の店員との会話から飛躍しすぎのような気もしますが(笑)、本当に英語ができる人が、その力を維持、向上させるためにどれだけのことをしているのか、案外考えないものかもしれないなと思いました。

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