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■大学芋はなんで「大学芋」という名前?「大学」+「芋」=「大学芋」と単純にはいえない。そう考えると、ことばには不思議がいっぱい。「大学芋」をきっかけにことばについて考えるブログです!
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2011年02月15日

ことばを並べる:言語の線条性と創造性

英語を勉強しているAくんとBくんが次のような会話をしていたとしよう。

Aくん:なんか、英語の語順って変だなあ。The boy kicked the ball.って文では、なんでkickのほうがballよりも先なの?まず何を蹴るのかちゃんと意識して、それから蹴るんだから、kickよりもballのほうが大事でしょ。boy→ball→kickっていう順番で人間は理解しているんじゃない?だから、「少年はボールを蹴った」って言う日本語のほうが自然な気がする。

Bくん:そうかなあ?それよりも、少年が足を動かして、その次に足がボールに当たるんだから、boy→kick→ballの順番がいいよ。英語のThe boy kicked the ball.のほうが直感的で自然だな。

あなたなら、AくんとBくんのどちらの意見が正しいと思うだろうか。どちらかが正しいと言えるとしたら、何を証拠としてあげればよいのだろうか。人間が物を蹴るときの視線の動きや脳の神経細胞を調べればよいのだろうか。仮にそうした実験をするにしても、どのような結果がでれば正しいと言えるのかはなかなか難しそうな問題だ。

ただし、この会話でわかることが一つある。それは、何を先に言うにせよ、なんらかの順番に並べて話さなければならないということだ。当たり前のことだと思うかもしれないが、言語以外の媒体を使うならば必ずしもそうではない。

次の絵(?)を見てみよう。少年がボールを蹴った絵だと思ってほしい。
The boy kicked the ball.png


絵であれば、「少年」「ボール」「蹴る」などといちいち分解せずに一気に全体像をつかむことができる。もちろんそのうちのボールだけに注目するということは可能だが、それでも絵を全体として捉えることはできる。

しかし、言語においては、それぞれの要素を同時に提示することはできない。人間は一度にふたつの語を発するということはできず、一語ずつ並べていくしかない。言語のこのような制約は「線条性」(linearity)と呼ばれている(池上嘉彦『記号論への招待』を参照)。

そして、その並べ方も自由ではなく、基本的には言語ごとに決まっている。日本語では、「ボールを蹴る」のように目的語-動詞の順、英語ではkick the ballのように動詞-目的語の順であり、勝手にその順番を変えることはできない。英語で、ボールのほうに特に注意が向いたから今回はThe boy the ball kicked.と言ってみようなどということは、普通できないのだ。

線条性は言語にとって宿命的な制約だが、この制約があるからこそ表現できることもある。たとえば、絵を利用して(1)の二つの文、あるいは(2)の三つの文の違いを表現することはほとんど不可能だろう。それらは完全に同じ意味ではなく、話し手がある出来事や状態をどのように捉えるかというレベルで違いがあるはずだ。

(1)
a. 夕食を食べる前に本を読んだ。
b. 本を読んだ後に夕食を食べた。

(2)
a. 彼は優しさと厳しさを兼ね備えている。
b. 彼は普段は優しいが、ときどき厳しい。
c. 彼は厳しいときもあるが、普段は優しい。

言語は現実の世界をそのまま反映させる手段ではない。それは、一方では現実の認識に関わらず一定の順番で語を並べなければならないという制約を生みながら、他方では言語を使う者の世界の捉え方を表現する手段にもなる。その意味で、線条性は言語の創造性の源泉であるともいえる。

参考文献
池上嘉彦. 1984. 『記号論への招待』 岩波新書.
posted by ダイスケ at 00:08| Comment(0) | ことば | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年02月14日

名詞を使うか、動詞を使うか:「雨が降る」という表現の日英比較2

前回の記事:降らない雨はない?:「雨が降る」という表現1
前回は「雨が降る」という表現とそれに対応する英語の表現について考えてみた。
日本語では「雨」+「降る」という表現を使うのに対して、英語ではrainという動詞一語で済ませる(ただし、よくわからないitを使い、It rained last night.のようになる)のだった。

実は、英語でも「雨」をrain、「降る」をfallとすることで、日本語のように両者を分離させた表現は可能だ。

(1)
a. 雨が降りだした。
b. Rain began to fall.

これを見ると、英語は二通りの表現をもっていて、日本語よりも表現方法が多いように思える。これは、次の表現ときとは対照的でおもしろい。

(2)
a. 春が来た。
b. 春めいてきた。
c. Spring has come.

(2a)の日本語と(2c)の英語では、「春」+「来る」、spring+comeというように、名詞と動詞を使った表現だが、(2b)では「春めく」という動詞一語が同じような意味を担っている。

こうなると、意味のちがいが気になる。(2a)の「春が来た」では、春とその前の冬という季節の境目がはっきりしていて、その季節が変わったという感じがするが、(2b)の「春めく」は春らしさが感じられるようになるような、徐々に季節が移り変わっていくことを表している印象を受ける。(3)のように時間の幅を感じさせない表現といっしょに「春めく」を使うと少し不自然なのは、その違いを反映しているのだろう。

(3)
a. 昨日、春一番が吹いた。やっと春が来たね。
b. ?昨日、春一番が吹いた。やっと春めいたね。

では、it+rain式の表現とrain+fall式の表現でも何か違いがあるのだろうか。きっとあるのだろうけど、こういうのは辞書には載っていない。ちょっと考えただけでも、rain+fall式の表現では、どんなrainなのかをより限定できるし(a sprinkle of rain(小雨)など)、いっしょに使われる副詞にも違いがありそうだ。よく考えたら、We had much rain this summer.みたいな表現もあった。もしかしたら、これも論文のネタになるかもしれない。今度ちょっと調べてみようかなあ。

関連記事:春めいてきた
posted by ダイスケ at 02:09| Comment(0) | ことば | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年02月13日

降らない雨はない?:「雨が降る」という表現の日英比較1

中学生のときに習う英語の表現で、おそらく多くの人が不思議だなと思うものの一つが、「雨が降る」に当たる表現だ。

(1)
a. 昨晩雨が降った。
b. It rained last night.

日本語の感覚からすると、なぜitが必要なのかと思うところだ。このitは天候を表すitだとか、高校ぐらいになると非人称のitなどと呼ばれる。いずれにせよ、正体のよくわからないitを使うのだ。

さて、さっきから不思議だと言ってきた英語の表現だが、実は日本語の「雨が降る」というのも考えてみれば、何か変ではないだろうか。試しに「雨」を『明鏡国語辞典』(大修館書店、2002)で引いてみよう。(2)に定義を引用しておく。

(2)空気中の水蒸気が冷えて雲となり、水滴となって空から降ってくるもの。

つまり、「雨」の中には「降る」の意味がすでに入っているように感じるのだ。「雨」が水滴の部分だけを指しているとすれば、その水滴が「降る」というのもおかしくないのだが、おそらく私たちは「雨」と「降る」を分離して考えてはいないと思う。降ってこない水滴のことは「雨」とは呼ばない。

でも、水滴が空から落ちてきていることはたしかなので、「雨る」(雨が降るという意味の動詞があるとしたらこんな感じか?)みたいな動詞を無理やりつくるよりは、「雨」の水滴の部分に着目して「降る」という動詞を使いたい気持ちもわかる。だから、これはこれでよい気もするし、「雨」と「降る」を分離させない(その代わりよくわからないitを使う)英語のほうが潔い(?)感じもする。
要するに、どちらの言語にもそれなりに理にかなった表現をしていると言えるだろう。

「雨が降る」ということを、それ以外の表現の仕方があるとは外国語でも学ばないとなかなか思いつかない。当たり前だと思っていたものが、案外当たり前じゃないかもしれないことに気づくのも外国語を学ぶ楽しみだなと思う。

続編:名詞を使うか、動詞を使うか:「雨が降る」という表現2
posted by ダイスケ at 23:53| Comment(0) | ことば | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年02月04日

言語の美的機能

韻文の作文に思う存分時間配分
たぶん幾分悪文だけど、気分は十分ラッキーセブン

言語は伝達の手段であると言われることがある。何か言いたい内容がまずあって、それを表現するためにちょうどよいことばを当てはめる。たとえば、年賀状を書いている人が「去年はお世話になりました」と「昨年はお世話になりました」のどっちにするか悩んでいたら、意味は同じだからどっちでもいいのにと思うかもしれない。そのようなときには、伝える内容に対して、たまたまふたつの手段(「昨年」と「去年」)があると捉えられている。何かを伝える手段としての言語の側面は「実用的」機能と呼ばれる。実用的機能に着目すると、表現方法は内容に従属しているように思える。

一方、表現方法が内容よりも重要になることもある。早口ことばの「隣の客はよく柿食う客だ」は「隣の客は頻繁に柿を食べる客だ」などと言い換えてしまったら、まったくおもしろくなくなってしまう。実際にそんな客がいるかどうかはあまり問題にされない。その響きが大切なのだ。ことば自体のおもしろさや美しさを担う側面は、言語の「美的」(あるいは「詩的」)機能と呼ばれる。

このように書くと、実用的機能と美的機能はかけ離れたものだと思うかもしれない。たしかに新聞や報告書などの文書で美的機能を見つけるのは難しいだろうし、ことば遊びやナンセンス詩の価値は実用的機能を犠牲にした結果だといえる場合もあるだろう。

しかし、実用的機能を果たそうとして生み出した文が偶然美的機能を備えていることもある。「きのう、めっちゃ抹茶飲んだ」などと言われたら、言った本人は何とも思ってなくてもツッコミを入れたくなる。奇抜さはなくても「この構文の論文の例文の半分は英文です」は心躍る響きがある。美的機能は、コピーライターや詩人だけのものではなく、もっと身近なものである。

読まなきゃいけない論文あるのに、つい30分も時間をかけて冒頭の文を作ってしまったけど、そんな美的機能を楽しむ余裕があってもいいんじゃないかな、なんて思ったり。

参考文献
池上嘉彦. 1984. 『記号論への招待』 岩波新書.
posted by ダイスケ at 05:23| Comment(2) | ことば | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月28日

英語の複数形と日本語の「-たち」

( ) bag is this? - It's Tom's.

先日、塾で中学生に英語を教えていると、上記の空欄を埋める問題があった(who, what, whoseから選択)。答えはwhoseだが、その答えを導くには、It's Tom's.の意味がわかっている必要がある。生徒にIt's Tom's.の意味をたずねてみると、自信なさそうに「トムたち?」という答えが返ってきた。

そうか、「トムたち」か。Tomの複数形か。ちょっと予想していない回答だったが、よくよく考えてみると「トムたち」という日本語の表現自体はおかしくない気がする。英語の複数形と日本語の「-たち」は必ずしも対応しないのではないかと気づいた。

そもそも、英語では名前が複数形になることはない(ただし、the Staurtsのように名字を複数形にして「スチュアート夫妻」などの意味をあらわすことはできる)。一方、日本語では(1)のように「名前+たち」という表現は可能である。

(1)桃太郎たちは鬼を退治するために鬼が島へ向かいました。

しかし、この場合「桃太郎たち」は桃太郎という人物が複数いることは表さず、桃太郎とその仲間といった意味になるだろう。『明鏡国語辞典』(大修館書店、2002)には次のような定義が載っている。

(2)人・動物の複数を表す。また、〜を代表とする一団の意を表す。

つまり、「男たち」「学生たち」のように、一般的な名詞がきた場合は前者の複数の意味を、「桃太郎たち」「トムたち」のように名前がきたときには後者の「〜を代表とする一団」の意味を表すのだといえる。ただし、次のような場合は、解釈が揺れるだろう。

(3)弟たちは公園で遊んでいた。

(3)は「弟とその友達」のような解釈をする人が多いかもしれないが、二人以上の弟がいる兄の発言だと想定すれば、複数の解釈も可能である。これは、「弟」などの親族を表す名詞が普通名詞と固有名詞の中間的な存在であることによるのだろう。

こんな具合に思考をめぐらせることができたのも、生徒の回答がきっかけ。英語を教えていると自分では気づかなかった意外な発見をすることがあり、とてもおもしろい。
posted by ダイスケ at 02:44| Comment(0) | ことば | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年11月30日

「男」と「男性」のちがい

テレビのニュース番組を見ていたら、アナウンサーが「被害者の男性は...」と言った後、「男は逃走し...」と言っているのに気づいた。「男性」と「男」が使い分けられていることが新鮮で、ニュースの内容よりそっちのほうが気になってしまった。

「男」と「男性」はともに性別がオスの人間を指し示している点は共通しており、言い換えが可能なケースもある。ただ、指し示すことができる範囲がおおむね同じだとしても、それに付与されるイメージは異なる。「男」よりも「男性」のほうが丁寧な表現で印象がよいと思う人が多いのではないだろうか。

そして、その印象のちがいが、事件の描写などで匿名の人間が二人(以上)登場する際に、指し示す人物のちがいとして顕在化するようだ。つまり、「男」が犯人・容疑者、「男性」が被害者・犯人を取り押さえたりといった協力者に対して用いられる傾向にある。実際にWebサイトからは以下の例が見つかった(Googleで[男 男性 ひったくり]で検索)。

(1)「ドロボー!捕まえて!」カバンをひったくられて、叫ぶ女性。女性の声を聞きつけ、通りすがりの男性がかけつけました。女性の視線の先には、カバンを抱えた男が走っています。男性は、その男を犯人と確信し「待て!」と一喝。犯人はおいつめられ、その場で逮捕されました。


(2)自転車で帰宅途中、後方からオートバイが近づき、運転していた男に、前カゴに入れていた手提げバッグをひったくられています。男性に怪我はありませんでした。


(3)南藤沢の路上で、買い物帰りの主婦の手提げバックの中から財布をひったくった男を逮捕しました。被害者の「泥棒」という叫び声を聞いた、付近通行中の男性2名が追いかけてこの男を捕まえ、110番通報で駆けつけた警察官に引き渡してくれました。(6月1日)


(1)と(3)では「男性」が逮捕協力者を、(2)では被害者を表している。「男」はいずれにおいても犯人を指している。他にもいくつか検索結果を見てみたが、基本的に同様であった。ただし、犯人しか登場しない場合は、その人物が(「男」ではなく)「男性」として表現されることもあるようだ。

普段何気なく使っている「男」と「男性」だが、事件の描写のように文脈が限定されるとはっきりした差が出てくる。このようなちがいは言語によっては表現ししづらい気がするし、調べてみるとおもしろいかもしれない。言語はおもしろいことだらけだなあとしみじみ思う。
posted by ダイスケ at 05:50| Comment(2) | ことば | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月26日

グレーな文法

前々回の記事:日本語はあいまい?
前回の記事:「ご飯を食べたい」と「ご飯が食べたい」、「水を飲みたい」と「水が飲みたい」
新聞の売りは新鮮さだとしたら、1ヶ月以上も前の新聞記事について言及するのは野暮なことかもしれない。ただ、多くの人にとって当たり前のような存在であることばについて、わざわざあれこれ考えること自体がすでに野暮なことだとしたら、もはや気にすることでもないのかもしれない。

ということで、連載が終わってから、1ヶ月も経ってしまった「日本語のちから」(読売新聞朝刊)について前回の続きを書きます。

「ご飯を食べたい」とも「ご飯が食べたい」とも言うことができる。使い分けの法則性がわからず、あいまいなところが興味深い。前々回に紹介した芥川賞作家の楊逸(ヤン・イー)氏の記事にはそう書かれていた。

実は、楊逸氏の記事には、日本語検定の問題の紹介がセットになっていた。空欄を埋める正しいことばはどれかという問題である。ぼくにとって興味深かったのは、法則性がないという文章と、日本語の正誤を問う、つまり法則性に関わる(法則性がなければ正誤を問題にできない)文章が並んでいたことだ。

ここからわかることは、実は文法や語法というのは、正誤という形で白黒はっきりする場合と、グレーなものとに分かれるということだ。こういうときは、外国語の例を出したほうが分かりやすいかもしれない。

(1) John showed Mary a photo.
(2)John showed a photo to Mary.
(3)*John showed a photo Mary.

「ジョンがメアリーに写真を見せた」に当たる表現として、(1)と(2)は正しい英語だが、(3)は間違った英語とされる。(2)のto以外は同じ単語を用いているにもかかわらず、そのようなちがいが出る。これは正誤の問題。

一方で、(1)と(2)のちがいは、状況をより特定すると現れる(以下、詳しくは池上嘉彦『〈英文法〉を考える』を参照)。たとえば、両者の後に"... but she didn't see it because she was sleeping."と続けるとすると、(2)は自然だが、(1)は不自然になる。(1)のようにtoを伴わない形は、ジョンが見せた結果メアリーはそれを見たという意味合いが含まれる傾向にあるのに対して、(2)のようにtoを伴う形は、メアリーは見せるという行為の方向性を表すにとどまり、必ずしもメアリーが写真を見たということを意味しない。したがって、(1)はメアリーが見なかったという状況にはふさわしくないということになる。

ただし、(1)と(2)のちがいがいつも顕在化するとは限らない。たとえば、"I showed a picture to the man who sat next to me on the train.のような文では、(1)のような表現が選択できず(目的語が長くなりすぎる)、そのため両者の区別を表すことができない。このように、(3)が正誤の観点から白黒をはっきりさせることができる一方で、(1)と(2)のちがいはかなりグレーなものである。

同じように、「ご飯を食べたい」と「ご飯が食べたい」の「を」「が」にもちがいがあるのだといえるだろう。そこにもグレーな形での法則性は存在しており、場合によってそのちがいが顕在化するのである(前回の記事で見たように)。

ほとんどの人にとっては、文法といえば正誤が問えるようなものかもしれない。しかし、単純に正誤では片付かないが同じではないというものも、文法の一部であるはずだ。それは使い分けに気づいていないとしても、無秩序ではない。正誤はたしかに重要な側面ではあるが、ときとして息苦しい。グレーな文法は、なんだか人間らしさを感じられる部分のような気もする。

楊逸氏は「法則性がなくて、あいまいなところ」と表現しているが、「『を』と『が』はどういう場合に使い分けるのか」と言っているように、実際にはその微妙なちがいに興味をもっているのだといえる。英語の(1)のちがいがおもしろいと感じられたなら、同じように日本語にも興味をもってみませんか?

参考文献
池上嘉彦. 1995. 『〈英文法〉を考える』 ちくま学芸文庫.
posted by ダイスケ at 08:21| Comment(0) | ことば | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月28日

「ご飯を食べたい」と「ご飯が食べたい」、「水を飲みたい」と「水が飲みたい」

前回の記事:日本語はあいまい?
急に外国語話者に「『ご飯を食べたい』と『ご飯が食べたい』における『を』と『が』の使い分けを教えてほしい」と言われたら、何と答えるだろうか。おそらく、「なんとなく、そのときの気分」と思ってしまう人もいるだろう。

だが、自分がどう使い分けているかわからなくても、使い分けていないわけではない。どちらを使うかはそのときの気分だったとしても、見方を変えれば、その気分にあった言い方があるということでもある。

たとえば、次の「…たい」の前における使い分けを「を」と「が」を考えてみよう。(1)では「を」でも「が」でも自然だが、(2)では「が」はかなり不自然である。

(1)
a. 英会話{を/が}習いたい
b. 真相{を/が}知りたい。

(2)
a. 英会話{を/?*が}教えたい。(*?はかなり不自然)
b. 真相{を/*が}話したい。(*は不可能)

一方、次の例では「が」のほうがどちらかといえば自然に感じる。

(3)ああ水{?を/が}飲みたい。(?はやや不自然)

このことから、「を」は多くの場合に使われるが、あるものの所有や享受の願望を表す場合は「が」が使われやすくなる、ということがわかる。(以上の例文および議論は、大江三郎「願望のタイの前でのヲとガの交替」を参考にしている)

実際のところ、「を」と「が」の使い分けはそれだけではすべての場合を説明できるほど単純ではなく、そのちがいについては日本語の研究においてもまだまだ研究途上のようだ。

だが、重要なことは、「を」と「が」がいつでも入れ替え可能というわけではなく、一方は可能だが、もう一方は不自然あるいは不可能という場合があるということである。つまり、私たちは何らかの基準において、たしかにそれらを使い分けている。日本語は法則性がないというよりは、私たち自身がそれに気づいていないだけなのだ。
ここでいう法則性が上記でいうところの「気分」にあたるものだと思えば、少し見方も変わってくるのではないだろうか。

更新を怠っている間に、読売新聞の「日本語のちから」が終わってしまった(笑)。

参考文献
大江三郎. 1973. 願望のタイの前でのヲとガの交替. 『文学研究』 70. 1-11.

続編:グレーな文法
posted by ダイスケ at 02:06| Comment(0) | ことば | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月22日

日本語はあいまい?

読売新聞の朝刊にて「日本語のちから」という連載が始まった。
第1回の記事は、芥川賞作家楊逸(ヤン・イー)氏によるもの。
タイトルは「あいまい だから面白い」であり、次のように書いてあった。

特に、法則性がなくて、あいまいなところが興味深い。「田中さんが中田さんになると『なかだ』と濁る場合もある。『だなか』と濁ることはないのに」「ご飯を食べたい、ご飯が食べたい。『を』と『が』はどういう場合に使い分けるのか」―日々の生活で突き当たる疑問に、日本語の奥深さを感じている。
楊逸「あいまい だから面白い」『読売新聞』朝刊, 2010年9月20日.

この文章を読む限り、楊逸氏にとって日本語があいまいなのは法則性がないからということらしい。これは、日本語に外国語として接した人の個人的な感想である。だが、「日本語はあいまいである」というのは、単に外国人の印象としてだけでなく、日本人自身の心理にも受け入れやすい意見なのかもしれない。

英語の場合、「ジョンがメアリーに写真を見せた」に当たる表現として、(1)のように二通りの言い方がある。「同じことを言うのにtoを使ったり使わなかったりして、法則がはっきりしない。英語はあいまいである」という主張をしてもよいはずだ。

(1)
a. John showed Mary a photo.
b. John showed a photo to Mary.

もし、「日本語に法則性がなくてあいまいである」という意見に納得がいったのに、同じような理由で「英語に法則性がなくてがあいまいである」とする意見に違和感を感じるとすれば、不思議である。
そのような人にとっては、「日本語があいまいである」という結論が先にあって、それに見合うような証拠を探しているだけなのかもしれない(逆にいえば、英語に似たような現象があっても「英語があいまいである」とは思っていないので、それに気づかない)。

次回は「ご飯を食べたい」と「ご飯が食べたい」の表現に注目して、「日本語はあいまいである」という意見を考えてみる。

続編:「ご飯を食べたい」と「ご飯が食べたい」、「水を飲みたい」と「水が飲みたい」グレーな文法
posted by ダイスケ at 15:45| Comment(0) | ことば | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年08月23日

ことばについて考える3:ことばの不思議への招待

前々回の記事:ことばについて考える1:語学と言語学
前回の記事:ことばについて考える2:辞書と言語学
(今回の記事を書くにあたり、それぞれ加筆・修正しました)

2回にわたって、言語学ではどんな関心をもって言語を眺めているのかを書いてみた。これを読んでいただいた方は、どんな感想をおもちになっただろうか。

だれでも自分の母語については、使いこなすことができる。
ここでいう「使いこなす」とは、口が達者ということではない。どんなに口下手な人でも、それは伝えたいことがうまく表現できないということで、文法的にまちがった表現を使ってしまうということではない。「大きなお世話」と言おうとして「大きいお世話」と言ってしまったりすることは、基本的にはないのだ。「彼は悲しい」と「彼が悲しがっている」のどちらを使えばいいかわからないということも、おそらくない。

それはつまり、言語にはなんらかの仕組みがあって、同じ言語の話者はそれを共有しており、それに基づいて言語を使っているということを意味している。そして、ある言語を使うことができるからといって、その言語の仕組みについて説明ができるとは限らない。したがって、その仕組みを明らかにするのが言語学だといえる。

ここ2回の記事でやたらと「言語学」と言ってきた。その理由は自分が勉強している言語学がどのようなことをしているのか知ってもらいたかったからだ。だが、ことばについて考えることは、言語学の専門知識がなくてもできる。その気になれば、いくらでもことばの不思議を見つけることができる。

英語にも敬語はある?

英語の冠詞については丸暗記しかない?

「冷やす」と「冷ます」の意味のちがいは?
英語のsearchと日本語の「さがす」は同じ?
英語のhelpと日本語の「手伝う」は同じ?
「お湯を沸かす」っていうけど、実際に沸かしているのは「水」なのでは?

普段の生活をしていて、あるいは外国語の勉強をしていて、ここに挙げたような素朴な疑問がわいたことがなかっただろうか。それは、生活の中で、学習が進むにつれて、とりあえず受け入れるしかなかったかもしれない。だが、当然のこととして受け入れていたものが、よく考えると当然と言えるほど単純ではないと気づくこと、そして、それならどのような仕組みが働いているのかと考えることは、とてもスリリングな営みなのだ。言われてみればそれは不思議だ、そういえば自分もそんな疑問をもったことがあった、そういう方々が、ことばについて考えることのおもしろさを感じてもらえれば幸いです。
posted by ダイスケ at 00:41| Comment(0) | ことば | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年08月03日

ことばについて考える2:辞書と言語学

前回の記事:ことばについて考える1:語学と言語学

前回は、語学と対比することで、言語学は言語をどのように捉えるのかをみてみた。今回は辞書を話題にして、言語学的な関心について考えてみよう。日本語でも外国語でも、辞書があれば、ことばの意味や使い方はすでに十分明らかにされていると思われているかもしれない。しかし、必ずしもそうではないのである。

「悲しい」と「悲しがる」という語を例に考えてみよう。辞書を引けば、形容詞「悲しい」がどのような感情を表すかが載っている。また、「-がる」という接尾辞は、形容詞などの語幹につくこと、そしてその形容詞で表された気持ちや様子を外に見せることを意味するのがわかる。なお、「悲しがる」という語そのものは、辞書の見出し語にはなっていない(『明鏡国語辞典』『新明解国語辞典』には載っていなかった)。

それがわかれば、「悲しい」と「悲しがる」については、(どんなときに悲しい感情になるかはなかなかに難しい問題だとしても)、辞書の記述としてはこれで十分のように感じる。しかし、私たちは「悲しい」と「悲しがる」についてもっと多くのことを知っている。

(2)
a. 私は悲しい。
b. ??彼は悲しい。

(3)
a. ??私は悲しがっている。
b. 彼は悲しがっている。

日本語話者からすると、(2b)のように「彼」のように他人(一人称以外)を主語にすると不自然に感じられる(??はきわめて不自然な表現を表す)。他人の悲しさについて言及する場合、(3b)のように「悲しがる」を使うのがふつうである(逆に(2a)は不自然)。「悲しい」と「悲しがる」という語の使用において、これらは重要な情報であるが、辞書には書いていないのである。

(2b)のように、他人がどのような感情をもっているのかをわかっているかのような表現は、日本語では避けられる。それを知らなければ、「悲しがる」という表現の存在意義を(少なくともその一部は)理解したことにはならないのではないだろうか。

なお、日本語の感情・感覚を表す形容詞の場合、基本的に「悲しい」と「悲しがる」にみた使い分けが当てはまる。
英語ではI am sad.もHe is sad.もどちらも問題ないことを考えると、日本語でも「彼は悲しい」という言い方ができてもよさそうな気がする。なぜ日本語で(2)が不自然なことは追求してみるべき問いだといえる(はっきりした答えが出るかどうかはともかく)。

語や文法はただ覚えればいいだけのもので、辞書、あるいは文法書は絶対的なものだというイメージが強いかもしれない。しかし、日本語でも英語でも、辞書にも文法書にも書いていないような(あるいは、書いていることに反するような)ことがいっぱいある。言語の実態を記述し、なぜそのようになっているのかを説明するのが言語学なのだ。

続編:ことばについて考える3:ことばの不思議への招待
posted by ダイスケ at 05:21| Comment(0) | ことば | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月24日

ことばについて考える1:語学と言語学

言語学を勉強していて思うのは、言語学というのはあまり世間に知られていない学問なのだなあということだ。本屋に行っても、「哲学」「文学」「心理学」などのコーナーはあっても、「言語学」というコーナーは普通ないことからも、それはうかがえる。場合によっては、「語学」のコーナーに言語学の本があったりするのだが、語学と言語学はちがう。ただ、普段の生活をしていて、言語というものを強く意識させられるのは、語学、つまり外国語学習のときだろう。今回は、語学と言語学を対比させる形で、言語学の紹介をしてみようと思う。

外国語を勉強するときというのは、当然ながらその言語を十分に使える状態ではないだろう。その場合、何よりもまず、わからない語句や文があって、それをわかるようにしたいとい願望があるはずだ。(あるいは、あることを表現したいがそれをどう表現してよいかわからない、それを何とかしたい)それは、本を読んだり、その言語の話者と会話をするという目標があってのことだ。つまり、語学にとっての言語は「手段としての言語」なのだ。

それに対して、言語学にとっての言語は「目的としての言語」である。ある言語の構造や機能に興味を示すのである。言語学に必要なのは、見るからに難しい表現を読み解くことではない。むしろ、言語学で出てくる例文の多くは一見簡単である。しかし、意味のわかりきっているような表現でも、よく考えてみると不思議があり、その不思議に気づくことが言語学のスタートになる。

次の例を見てみよう(今回の例はすべて自作)。

(1)
a. 大きいりんご
b. 大きなりんご
(2)大きなお世話

日本語を勉強している外国人がいたとして、(1)では「大きい」も「大きな」もともに「りんご」という名詞を修飾しておりその意味は基本的に同じでありと、(2)はやや特殊な用法で「余計なおせっかい」という意味であると知っていれば、その人の日本語の力はなかなかのものだと考えるだろう。(1)と(2)の意味がわかっていて、それを使えるのだから、語学としては問題ない。

では、次の例はどうだろうか(*は容認されない表現を表す)。

(3)*大きいお世話

「大きい」と「大きな」はほぼ同じ意味であるはずなのに、日本語の話者は(3)のような表現を使うことはない。
では、両者の差は何なのだろうか。他にも同じような例を挙げてみよう。

(4)
a. 彼は大きな悩みを抱えている。(cf. *大きい悩み)
b. その政策は日本経済に大きな影響を与えた。(cf. *大きい影響)
c. その事業の成功のおかげで、私たちは大きな喜びを覚えた。(cf. *大きい喜び)

これらの例から、「大きい」は物理的な大きさを表すのに対して、「大きな」は物理的な大きさはもちろん、程度のはなはだしいさまをも表すのではないかと予想できる。
ただし、話はそれほど単純ではない。程度のはなはだしさを表す用法は、名詞修飾でなければ「大きい」を用いてもまったく問題ない。

(5)
a. 彼の抱えている悩みは大きい。
b. その政策が日本経済に与えた影響は大きい。
c. その事業の成功で得られた喜びは大きい。

また、(6)の「大きい」が修飾しているのは物理的なものではないが、違和感は感じられない。

(6)
a. 授業中に大きい声を出してはいけません。
b. 最近は大きい事件が起こっていない。

そして、そもそも本来物理的な大きさのないものに対して「大きい」「大きな」という語を使うのも、考えてみれば不思議な気がする。
「大きい」と「大きな」のちがいがどうなっていて、それはなぜなのか。こうした問いを追求をしていくなら、それはすでに言語学へ一歩踏み込んだことになる。

言語学では、言語の不思議を探るために、意味のわかりきった表現でも考察の対象となる。その際、あえて容認されない例(母語話者にとってみれば間違っている表現)を用いることもあるが、それが容認される表現の解明につながることもあるのである。わからない語句や文をわかるようにする、間違った表現であれば直すことを目指すことを目指す語学と比べてみると、言語学がどのような関心をもって言語を見ているのか、伝わってくるのではないだろうか。

(ただし、一口に言語学といっても、実にいろいろなアプローチや考え方がある。ここで紹介するのとはだいぶちがった形の言語学もあることをお断りしておきます)

続編:ことばについて考える2:辞書と言語学ことばについて考える3:ことばの不思議への招待
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2010年04月02日

「紙を印刷する」ことはできるか? ― 結果目的語の話3

結果目的語の話も今回で完結。
目的語いろいろ ― 結果目的語の話1
「お湯を沸かす」から「水を沸かす」へ ― 結果目的語の話2

「お湯を沸かす」という行為の〈結果〉を目的語に取る(結果目的語を取る)動詞が、新たに「水を沸かす」という行為の〈対象〉を目的語にとるようになった。
同じことが他の動詞にも当てはまるのではないだろうか?
今回注目するのは「印刷する」である。

「印刷する」と聞いてすぐに思いつくのは、「新聞を印刷する」「年賀状を印刷する」のようなに結果目的語を取る用法である。
印刷する際、働きかける対象は何かといえば「紙」だろう。
そこで、考えられるのが「紙を印刷する」という言い回しだが、多くの人はどことなく不自然という印象を受けるか、あるいは誤用だと考えるかもしれない。

たしかに、「紙を印刷する」というのはあまり一般的な用法ではないと考えられる。
しかし、次のような例は違和感なく受け入れられるのではないだろうか。(下線は筆者)

(1)
a. 用紙を変更後に印刷すると、余分な紙を印刷する

b. そして、紙は通常のコピー用紙なら何でもかまいません。これまでと全く同じ感覚で自動読取可能な紙を印刷することができます。

c. 小さい紙を印刷するときはどうすればいいですか

d. オフィスの紙を減らすだけならば、より簡単な方法もある。紙を印刷する際には必ず両面印刷する。これならオフィスで必要な紙の量を大幅に削減できる。
MSN「MSNデジタルライフ ― 無駄なファイルを減らしてオフィスのエコを実現せよ」

これらを見ると、「紙を印刷する」という言い方がおかしとは、必ずしもいえなくなる。
(1)の容認性を高めているのは、「水を沸かす」のときと同じく「紙」に対する修飾語句があることや((1a-c))、すでに「紙」が話題に挙がっているという文脈((1d))だと思われる。
どちらの場合も、印刷することによって何が作り出されるかは関心になく、紙そのものに働きかけるという側面が全面に押し出されていることがわかる。

このように、私たちは自らの捉え方に応じて、ことばを使い分ける。
結果に着目した動詞と思われているものでも、行為の対象を目的語にとりうるのだ。

文法の話というと、あることばづかいが正しい、間違っているという話になりがちだが、「『紙を印刷する』も使うのだから、辞書に載せろ」とか、「いや、これは単なる誤用だから、すぐにやめるべき」といった二元論で片づけてしまっては、もったいないような気がする。

どんなときにそのような言い方が可能なのか(より受け入れやすくなるのか)、それはなぜなのかを追求していくことで、ことばのいろいろな側面がわかってくるはずである。

単純な正誤で片づけられないのは、もやもやして落ち着かないという人もいるかもしれないが、そのもやもやにこそおもしろさがあるのだと思う。

参考文献
足立公平. 2004. 「ヲ格と道具目的語」 山梨正明ほか(編). 『認知言語学論考No.3』 ひつじ書房.
池上嘉彦. 1995. 『〈英文法〉を考える』 ちくま学芸文庫.
北原保雄(編). 2002. 『明鏡国語辞典』 大修館書店.
国広哲弥. 2006. 『日本語の多義動詞』 大修館書店.
栗栖佳美. 2006. 「結果の目的語を取る動詞についての通時的考察: 『ワカス』『ニル』『ホル』を例として」 『広島女学院大学国語国文学誌』36: 33-52.
Jespersen, Otto. 1992. The Philosophy of Grammar. University of Chicago Press.
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2010年03月28日

「お湯を沸かす」から「水を沸かす」へ ― 結果目的語の話2

ひとつの動詞で2種類の目的語をとるケースがある。
「水を沸かす」と「お湯を沸かす」では、前者の目的語は行為の〈対象〉、後者は行為の〈結果〉を表す。
後者は結果目的語と呼ばれる、というのが前回の話。
目的語いろいろ ― 結果目的語の話1

さて、「水を沸かす」という表現を聞いて、「お湯を沸かす」に比べるとあまり使わないのではと感じた人はいないだろうか。
実は、「沸かす」の目的語を歴史的にみると、近代まではもっぱら「湯」を目的語としており、「水」を目的語とするのは比較的新しい用法だというのがわかる(栗栖佳美「結果の目的語を取る動詞についての通時的考察」参照)。
つまり、「作る」や「建てる」のように行為の結果だけを目的語としていた「沸かす」が、働きかける対象も目的語に取るように変化したのだといえる。

「水を沸かす」と言う場合、話し手にとっての最大の関心事は結果としてできる「湯」ではなく、働きかける対象である「水」にあるということになる。
対象の「水」に関心があるということを反映してか、「沸かす」の目的語としての「水」はなんらかの修飾語を伴うのが普通である。

(1)
a. いつも新鮮な水を沸かす
b. 美味しい水を沸かす
c. お風呂の水を沸かす
d. やかんの水を沸かす
e. 2リットルの水を沸かす
(栗栖佳美 前掲書p. 36、下線は原文ママ)


このため、「水を沸かす」だけを聞くと、やや不自然に感じることがあるのだろう。
なお、「お湯を沸かす」と「水を沸かす」の意味のちがいは、あとに沸いたことを否定する文を続けた場合の許容度のちがいとして顕在化するというのは、前回見たとおり。

このことから、もともと結果目的語専用の動詞だったとしても、結果よりもその過程、どのように働きかけるかに注意が向けられれば、対象を目的語にとることもありえることがわかる。
ことばは、私たちの関心に合わせて変化する可能性があるのだ。
次回に続く。
(参考文献は最後にまとめて)
続編:「紙を印刷する」ことはできるか? ― 結果目的語の話3
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2010年03月27日

目的語いろいろ ― 結果目的語の話1

前回の記事で、結果目的語について触れた。
あのときの自分、今の自分、これからの自分
今回から3回にわたって、さらに結果目的語の話をしよう。
ちなみに、これは卒論のテーマを決める過程に考えたものだ。

目的語といえば、多くは動詞が示す行為の対象であり、その行為によって何らかの影響を受ける。
「花瓶を割る」「ボールを蹴る」などの場合もそうである。
一方、「お弁当を作る」「家を建てる」といった場合、動詞の目的語は、行為の対象ではなく、行為の結果としてできるものである。
こうした目的語を結果目的語という。

「作る」や「建てる」のような動詞は結果目的語専用の動詞だが、2種類の目的語を両方取れる動詞も存在する。
国広哲弥『日本語の多義動詞』と以前紹介した『明鏡国語辞典』を見てみると、次のような例が見つかる。
(こういうとき、『明鏡』は非常に便利)

(1)沸かす
a. 水を沸かす
b. お湯を沸かす

(2)掘る
a. 地面を掘る
b. 穴を掘る

(3)焼く
a. 粘土を焼く
b. 茶碗を焼く

(4)折る
a. 紙を折る
b. 千羽鶴を折る

(5)炊く
a. 米を炊く
b. ご飯を炊く

(6)紡ぐ
a. 綿花を紡ぐ
b. 糸を紡ぐ

(7)煮る
a. 野菜を煮る
b. シチューを煮る

(1)から(7)までのbが結果目的語である。
aとbのちがいが顕著になるのは、次のような場合である。

(8)
a. 水をわかしたけど、わかなかったよ。
b. お湯をわかしたけど、わかなかったよ。
(池上嘉彦『〈英文法〉を考える』p. 147)


(8b)は前半で沸かした結果できる「お湯」をはっきりと示しているのに、後半でそれが否定されるために矛盾した印象を与えるが、(8a)はそれほどではないと感じないだろうか。
このように、bはaよりも行為の結果に着目した表現だといえる。
借りたのか、借りていないのか? ― 言語ごとの微妙なちがい」の記事も参照)

普段は意識しないが、私たちは表現したい内容に応じて巧みに目的語を使い分けているようだ。
次回に続く。
(参考文献は最後にまとめて)
続編:「お湯を沸かす」から「水を沸かす」へ ― 結果目的語の話2「紙を印刷する」ことはできるか? ― 結果目的語の話3
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2010年03月06日

あのときの自分、今の自分、これからの自分

中学のころから英語は好きだった。
英語を話すことに憧れたというより、英語の文法が好きだった。

中学3年生のとき、英語の先生と話をしていたら「『ロイヤル英文法』という本には文法のことは何でも載っている」というのを聞いて、さっそく購入した。
その項目の多さにびっくりしたが、わからないところがあると辞書のようにたびたび引いていた。

この『ロイヤル英文法』にはQ&Aというコラムがあり、そこで読者が思いつきそうな素朴な疑問が取り上げられていた。
その中のひとつに「『穴を掘る』はdig a holeでよいか?」というQがあった。

それまであまり考えたことはなかったが、目的語というのは動詞が示す行為の〈対象〉であることが多い。
言われてみればdig a holeは目的語が対象ではないので、日本語と同じように表現できるのかという疑問をもつ人もいる、と著者は考えたのだろう。

『ロイヤル英文法』の回答は次のようになっていた。
よい。「道路に穴を掘る」というとき、直接掘るのは道路で、その結果できるのが穴だが、英語でも日本語と同じようにhole(穴)を目的語にして、The men dug a hole in the road.(男たちは道路に穴を掘った)という。write a letterなども同じ例で、これを結果の目的語という(p. 23)。
これを読んで、目的語にもいろいろあるのだなと感動した。
(「結果の目的語」は「結果目的語」ともいう)

あれから9年。
卒論では、英語で「穴をあける」ことを意味する表現をひたすら集めて分析した。
中学のときに何気なく読んだこのコラムは、結局卒論のきっかけになったのだ。
卒論を書いて、まだまだ知らないことだらけなのがわかり、もっと勉強したいという思いを強くした。

というわけで、無事に大学院に合格しました。
これで勉強を続けることができます。
中学のときの感動を忘れずに、これからもことばの不思議に迫っていきたいと思います。

参考文献
宮川久幸ほか(編). 1993. 『ロイヤル英文法』 旺文社.
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2010年03月05日

ことば、意味、ピアノ

次のような文を見たら、どのように思うだろうか。

(1)
a. Colorless green ideas sleep furiously.
b. Furiously sleep ideas green colorless.

(1)はチョムスキーという言語学者が考えた有名な例文である。
チョムスキーはどちらも同じく意味をなさない(nonsensical)と述べている。
それにも関わらず、文法的なのは(1a)だという。
つまり、(1a)は主語と動詞があり、形容詞や副詞の修飾の仕方も間違っていない。
これに対して、(1b)はそもそも文法的に認めることができない。
そのため、言語学の対象とする文法は、意味からは独立しているというのが彼の主張である。

このように言われると、意味を切り離した言語研究の手法を追求してみる価値はありそうだと思えてくる。
ただ、(1a)を最初に見たときの感想は、それは本当に意味がないのだろうかというものだった。

たしかに「無色の緑」や「考えが眠る」は通常考えられない組み合わせであり、意味があるとは言いがたい。
しかし、人間は意味のないところに意味を読み込む動物でもある。
たとえば、鳥のさえずりから「今日はいい一日になりそうだ」と思ったり、一枚の葉が落ちるのを見て人生のはかなさを感じたりすることがありうる。
鳥はただ鳴いただけで、風はいつもより強かっただけかもしれないのに。

そのように考えてみると、意味は客観的に存在するものというより、むしろ人間が見出すものだとも言える。
(1a)から何か意味を読み取ってもいいはずだ。

実際、「無色の緑」のように対立することばを組み合わせる語法は、レトリックの分野では対義結合(oxymoron)として知られている(撞着語法ともいう)。
「慇懃無礼」、「ただより高いものはない」などふだんあまり気づかずに使っているものも多い。

では、「歌詞のない歌」と聞いたら、どんなものを想像するだろう。
歌詞がなければ歌とはいえないはずで、これも対義結合のひとつだといえる。

実は、これはメンデルスゾーンが作った一連の曲のことを指している。
彼は「無言歌集」(ドイツ語でLieder ohne Worte)というピアノの作品を49曲も作っている。
ここに紹介するのは、その中でも「デュエット」とよばれるもの。


その名前が、曲にふくらみをもたせていているようで、とても好きな曲。
みなさんなりに、思い思いの歌詞を思い浮かべて聴いてみてはいかがでしょうか。

参考文献
Chomsky, Noam. 1957. Syntactic Structures. Mouton.
池上嘉彦. 1984. 『記号論への招待』 岩波新書.
 (意味を読み取る主体としての人間について)
佐藤信夫. 1992. 『レトリック認識』 講談社学術文庫.
 (対義結合について)
ふき出しのレトリック
 (マンガに出てくるレトリックを扱ったサイト。おすすめ!)
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2010年02月12日

借りたのか、借りていないのか? ― 言語ごとの微妙なちがい

いきなりだが、次の文を見てほしい。

(1)
a. *John helped Mary solve the problem, but she was not able to solve it.
b. ジョンはメアリが問題を解くのを手伝ってやったが、彼女は解けなかった。

一見問題のなさそうな(1a)の英語はおかしな表現だ(*は許容されない文であることを示す)。
なぜかといえば、helpという動詞は単になにかの行為を助けるだけではなく、助けたためにその行為を達成したことまで含意しているからだ。
そのため、英語話者からすると、(1a)は前半と後半が矛盾していると感じられるようだ。

このように、英語の場合は行為の結果までが動詞の意味の一部となっているのに対して、日本語ではその結果までは問題とならないというケースは多い。

(2)
a. *John persuade Mary to come, but she didn't come.
b. ジョンはメアリに来るように説得したが、メアリは来なかった。

(3)
a. *Mary drowned, but she didn't die.
b. メアリは溺れたけど、死ななかった。

このことから、池上嘉彦氏は英語の動詞は〈結果〉中心であるが、日本語の動詞を〈行為〉中心であると述べている。
(『〈英文法〉を考える』を参照。例文もここから。興味をもった方は第II章「〈意味〉と〈文法〉」を見てみてください)

これは英語と日本語の話だったが、中国語はまた事情がちがうようだ。
最近中国出身の大学院生の方とお話する機会があり、次のような話を聞いた。

日本語で何かを「借りる」といえば、目的のものをそれを受け取るところまでを意味しているが、中国語はそれを受け取っていなくても「借りる」に相当する表現をすることができる、と。
たとえば、図書館に行って、本を探したが目当ての本がなくてそれを手にすることができなかった場合でも、中国語では「借りる」に当たることばを使うことができるらしい。

日本語では受け取っていないと「借りた」ことにならないと言うと、日本語でいえば借りていないときまで「借りた」と言ってしまったかもしれないとその大学院生の方は言っていた。

この話を聞いて、自分も英語を使うときは、実際よりも行為をやりすぎていることになっているかもと思い、池上氏の話をより実感することができた。
ちがう言語の話を聞くっておもしろい。

参考文献
池上嘉彦. 1995. 『〈英文法〉を考える』 ちくま学芸文庫.
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2010年01月30日

発音からみることばのおもしろさ2 ― 否定のin-のバリエーション

前回の記事では、子音の発音の仕組みを紹介した。
発音からみることばのおもしろさ ― 「がっきゅうぶんこ」となぜ言えない?

ただ、子音の発音方法がわかったところで「だから何?」と思ってしまう人も多いだろう。今回は、発音の知識を使って、どんな分析ができるかを紹介しよう。

1. 接頭辞のin-
「必要」ということばに否定を表す「不-」をつけると「不必要」ということばができる。「不-」のように頭につける要素を接頭辞という。英語にも同じように、否定の接頭辞in-がある。

(1)
a. accurate → inaccurate (正確な → 不正確な)
b. sufficient → insufficient (十分な → 不十分な)
c. dependent → independent (依存している → 依存しない、独立した)

しかし、場合によってはin-がim-になることがある。

(2)
a. mature → immature (熟した → 熟していない)
b. balance → imbalance (均衡 → 不均衡)
c. possible → impossible (可能な → 不可能な)

一見すると、ランダムにin-がim-に変わっているように見えるかもしれないが、そうではない。今回は、in-がどのようなときに、なぜim-に変わるかを音声学の知識を使って説明してみよう。

2. 子音の復習

前回の復習をすると、子音の分類で重要なのは、(i)口の中のどこを使うかと(ii)どのように空気が流れるかだった。

バ行の[b]とマ行の[m]は、(i)は同じでともに上下の唇を使う(口を閉じて発音する)音なので両唇音という。ちがうのは(ii)で、[b]の音は、閉じた唇から破裂するように空気が流れるのに対して、[m]は鼻に空気が流れる音だ。

(ii)が同じで(i)がちがうペアは、[m]と[n](ナ行に使う音)だ。どちらも鼻に空気は流れるが、[n]は口の奥のほうを使い、唇は使わない。

3. 同化現象
では、子音の知識を利用して、in-がim-になる条件を探っていくことにする。(2a)のimmatureからみてみよう。これは[m]ではじまる語だから、in-も同じ音になってしまったように思える。しかし、それでは(2b)の説明ができない。

(2a)immatureと(2b)imbalanceはもともと[m, b]からはじまる語だが、これらに共通するのは(i)口の中のどこを使うかで、両唇音というのだった。つまり、in-の[n]は、両唇音の前ではそれに引きずられて同じく両唇音の[m]に変わってしまうことがわかる

ただし、(ii)どのように空気が流れるかまでは同じにならないので、ibbalanceのようにはならない。immatureでmが2回続くのは、[n]も[m]ももともと(ii)が同じだったからだ。

このことは、(2c)impossibleについても成り立つ。[p]もやはり両唇音で、その証拠に口を開けたままではパ行が発音できない。ちなみに[b]と[p]は(i)(ii)ともに同じ音で、ちがうのはのどが震えるかどうかだ(のどは正確には声帯のこと)。

このように、ある音がその後ろ(または前)の音に合わせて発音が変わることを同化(assimilation)という。というわけで、in-がim-に変わるのは、両唇音の前で、同化が起こるからだといえる。

詳しくは説明しないが、(3)の例ではin-がir-になっているが、これも同化が原因だ。

(3)
a. rational → irrational (理性のある → 理性のない)
b. regular → irregular (規則的な → 不規則な)

4. おまけ

以上、前回の応用編でした。最後におまけとして、ローマ字で「新橋」と書くとき、どのようなつづりになるか考えてみてください(東京メトロのHPで確認)。これも同化が原因。発音の仕組みがわかると、いろいろなことが説明できるのでとても楽しい。

参考文献
中島平三. 1995. 『ファンダメンタル英語学』 ひつじ書房.

関連記事:
発音からみることばのおもしろさ ― 「がっきゅうぶんこ」となぜ言えない?
ハ行、バ行、パ行とオノマトペ
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2010年01月16日

発音からみることばのおもしろさ ― 「がっきゅうぶんこ」となぜ言えない?

言語学にもいろいろな分野があるが、発音を扱うものを音声学(phonetics)という。
音声学についてはずっと苦手意識があったのだが、最近勉強し直したおかげでちょっとずつわかるようになってきた。
今回は、人はどのように音声を出すのかという話をしてみたい。
(音声学でなによりも大事なのは音を実感することなので、実際に発音してみてください)

小学校のころの遊びで、口に指を入れて横に広げた状態で「がっきゅうぶんこ(学級文庫)」と言おうとすると、「がっきゅううんこ」になってしまうというのがあったと思う。
大切なのは、指を入れることではなく口を開けた状態で発音することなのだが、なぜ口を開けたままでは「がっきゅうぶんこ」と言えなくなってしまうのだろうか。

実は、バ行に使う[b]の音は、唇を合わせることで閉鎖をつくり、それを空気が突き破ることで出る音なのだ(これを破裂という)。
だから、口を開けていては[b]が発音できず、「がっきゅううんこ」になってしまう。
逆に言うと、「がっきゅうぶんこ」の[b]以外の音は唇を使わずに発音できるということになる。

人間はいろんな音声を出せるが、発音の中でも特に子音を取り上げる場合、音によって口の中の「どこ」を使うかがちがう。
[b]のように上下の唇を使って出す音を両唇音という。

[b]の他には、マ行の[m]の音も両唇音である。
口を開けたままでは「まみむめも」と言えないことを確かめてみてほしい。

では、[b]と[m]は何がちがうかといえば、子音のもうひとつのポイントである「空気の流れ方」である。
鼻をつまんで「あたま」と発音してみよう。
「ま」のときだけ鼻が振るえているのがわかる。
これは[m]は空気が鼻のほうに流れていることを表している。

ちなみに、風邪をひいて鼻がつまっているときは、うまく鼻に空気を流せない。
鼻声というのは、音声学的には「鼻をうまく利用できていない声」ということになる(上野善道「音の構造」より)。

まとめると、
[b]は上下の唇を使い、破裂によって空気を出すので両唇破裂音という。
[m]も上下の唇を使うが、鼻に空気を流すので両唇鼻音という。

せっかく発音についての知識がついたのだから、実際にどんな分析ができるのか知りたくなるところ。
次の記事では、今回の知識をimpossibleという語に応用してみよう。

参考文献
上野善道. 2004. 「音の構造」 風間喜代三他 『言語学』(第2版) 東京大学出版会.
関連記事:
発音からみることばのおもしろさ2 ― 否定のin-のバリエーション
ハ行、バ行、パ行とオノマトペ
タグ:日本語 発音
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