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■大学芋はなんで「大学芋」という名前?「大学」+「芋」=「大学芋」と単純にはいえない。そう考えると、ことばには不思議がいっぱい。「大学芋」をきっかけにことばについて考えるブログです!
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2017年01月30日

文法・語法の小窓1:cutの使い方

以下の二つの英文を日本語に直すと、どうなるでしょうか。

(1) I cut my finger on the broken glass.

(2) The cut on his hand goes very deep.


*****


cutは日本語でいうと「切る」という意味ですが、「(意図的に)切る」場合だけでなく、「(うっかり)切り傷をつくる」という場合にも用います。(1) は後者の意味で用いられると考えるのがいいでしょう。日本語でも「昨日夕飯を作っているときに指を切ってしまった」と言えば、「切る」が「切り傷をつくる」という意味で使われていることからわかるように、その二つの用法がありますね。そのため、(1) を訳す場合にはあまり気にしなくてもいいかもしれません。ただ、実際に英語を使う際にパッと口から出てくるようにするためにも、cutに「切り傷をつくる」という意味があること自体を覚えておくのは大事なことだと思います。

なお、I cut myselfやI cut my fingerのcutを「意図的に切る」という意味で取ることも可能ではあります(実際には迷うような文脈はあまりないかもしれませんが)。ただし、目的語が再帰代名詞か身体部位 名詞の場合は「切り傷をつくる」という意味で用いられていることが多いと言ってよいでしょう。ただし、次の例のように意図的に切るのが自然な解釈の場合もあります。

(3) John cut his nails with nail-clippers.

次に、(2) を見てみましょう。このcutは動詞ではなく名詞です。この場合は「切り傷」という意味で用いられています。つまり、cutは「切る傷をつくる」という動詞として用いる場合 (1) と、結果としてできる傷という名詞を表す場合 (2) があるのです。

このような二つの用法をもつ動詞として、ほかにbruise(打撲傷をつける/打撲)、scratch(ひっかき傷をつくる/ひっかき傷)、sprain(捻挫する/捻挫)などがあります。

というわけで、(1) と (2) は以下のような日本語に直すことができます。

(1) ガラスの破片で指を切った
(2) 彼の手の切り傷はとても深い。

なお、(1) は『ウィズダム和英辞典』から、(2) は『ウィズダム英和辞典』から取っています。(3) は小西友七編『英語基本動詞辞典』から。『英語基本動詞辞典』は英語の動詞を研究する際には重宝します。
タグ:英語 語学
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2015年09月07日

ハ行、バ行、パ行の発音とオノマトペ

私が大学院でやっているのは、言語学分野での英語研究なのですが、言語学というと、何やらとっつきづらく感じられるかもしれません。でもそんなに難しく考えないで、とりあえず普段使っている言葉の不思議を見つけ、それを説明するための考え方や道具立てだと思ってみてください。

今回は、日本語の発音について考えてみましょう。日本語は、カ行に対してガ行、サ行に対してザ行のように、濁点の有無による対立が見られます。ハ行は、バ行(濁点)、パ行(半濁点)と三者の対立のように思われていますが、実は発音の仕組みを考えると、カ行/ガ行の対立に相当するのは、パ行/バ行なのです。試しに「ぱぴぷぺぽ、ばびぶべぼ」と発音してみてください。両方とも発音するときに唇が一回ずつ閉じたと思います。一方、「はひふへほ」は口を開けたままでもなんとか発音できるでしょう。つまり、発音時の口の動かし方から言えば、ハ行はパ行/バ行とはちょっと違うのです。

ハ行が仲間外れであるというのは、私たちが使うオノマトペ(擬声語)にも反映されています。日本語のオノマトペには、「さらさら」(肌触り)や「とろとろ」(粘り気)に対して、「ざらざら」「どろどろ」のようなペアが見つかる場合があります。前者は心地よさ、かわいらしさが感じられやすく、後者は不快感や荒々しさが感じられます。ハ行、バ行、パ行のオノマトペを考えると、「ぺろぺろ/べろべろ」(なめる音)と「ぱくぱく/ばくばく」(食べる音)のように、快/不快のペアとなるのはパ行とバ行です。発音の仕組みがパ行/バ行と異なるハ行は、オノマトペの上でもおもしろい違いを見せます。「へろへろ」(疲れ)は「ぺろぺろ/べろべろ」とは無関係ですし、「はくはく」は「ぱくぱく/ばくばく」に対応しないどころか、そもそも意味をなさない表現です。

このように、今までわかっていたつもりの言葉を新しい視点から捉えることができるのが、言語学のおもしろさです。発音については以下の記事にも書いているので、よかったら見てみてください。

関連記事:
発音からみることばのおもしろさ ― 「がっきゅうぶんこ」となぜ言えない?
発音からみることばのおもしろさ2 ― 否定のin-のバリエーション
posted by ダイスケ at 17:14| Comment(2) | TrackBack(0) | ことば | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年10月31日

日本語の「髪」と「髪の毛」、英語のhair

「葉」は漢字で見ればすぐに意味が取れるが、音声にするとあまりに短かったり、「歯」のように紛らわしいものがあるため、すぐに認識しづらいこともあるだろう。そのためか、「葉っぱ」という言い方もある。ほかにも、「黄」に対して「黄色」、「田」に対して「田んぼ」というペアもある。

「髪」に対して「髪の毛」という言い方があるのも、同じ理由によるものかもしれない。「かみ」という音は、ほかにも「紙」などの解釈がありうるが、「髪の毛」としておけばそのような誤解がなくなる。「髪の毛」が紛らわしさを避けるための表現だとすれば、その存在意義も十分理解できたような気がするが、今回はその意味についてもう一歩踏み込んで考えてみたい。「髪」と「髪の毛」は本当に同じ意味を表しているのだろうか。

まず、「髪の毛」という表現の成り立ちについて確認しておこう。「髪の毛」は、[髪+の+毛]という3つの要素からできている。「髪」は「頭に生える毛」なのだから、すでに「髪」の中に「毛」の意味が入っていると考えて差し支えないだろう。つまり、「髪の毛」という表現の中で、「毛」が果たす役割はほとんどないと言ってよい。(「黄色」の場合も、「黄」がすでに色の一種なのだから、「色」を付け加えても意味上の貢献はほぼない)。そのため、「髪」と「髪の毛」が指すのは同じもののように考えられる。

しかし、「髪」と「髪の毛」が常に交換可能とは限らない。以下の例を見てみよう。

(1) 昨日、レストランに行ったら、スープに{髪/髪の毛}が入っていたので、交換してもらった。
(2) {髪/髪の毛}を変えただけで、若返ったと言われた。

どちらかと言えば、(1)は「髪の毛」、(2)は「髪」が自然に感じられるのではないだろうか。(1)では、スープに入っている毛は一本であるのが普通の読みだろう。この例のように一本一本の毛に注目する場合は、「髪」よりも「髪の毛」のほうがしっくりくる。それに対して、(2)は髪全体の形、要するに髪型を話題にしている。集合体としての毛を意識した場合は、「髪」と言いやすい。もしそうであるとすれば、「髪」と「髪の毛」は、私たちが頭の毛をどのように認識するかという、捉え方の違いを反映していると言える。

もちろん、そのような違いが意識されていないような場合もある。「{髪/髪の毛}がボサボサだ」は、「髪」と言っても「髪の毛」と言っても、それほど違いはないだろう。しかし、(1)や(2)のように使い分けがある場合は、上述のような毛の捉え方に基づいているようだ。(ちなみに、「髪」はわりと適用できる範囲が広い語であるため、「髪の毛」の代わりに使える例もある程度見つかるが、「頭髪」や「毛髪」は集合体としての頭の毛を指すのに限定されると言ってよさそうだ)。

「髪」と「髪の毛」の使い分けに相当するものが、英語にもある。英語のhairは、可算名詞の用法も不可算名詞の用法もあるが、どちらとして扱うかは、日本語の「髪」と「髪の毛」の違いにだいたい対応している。(3)と(4)には、その違いがよくあらわれている。

(3) You have a hair on your collar. I will take it off.
(4) She has beautiful blonde hair.

(3)は襟に髪の毛が一本ある場合で、このように明確な形をもつ一本の毛を指す場合、hairは可算名詞として扱われる(そのため、不定冠詞をつけたり、複数形にしたりできる)。一方、(4)のように毛の本数を意識しているのではなく、毛の集まりからなる連続体として見る場合、hairは不可算名詞である(不定冠詞をつけたり、複数形にしたりしない)。これは、さきほどの「髪」と「髪の毛」の使い分けに似ていると言える。

このことがわかれば、以下のペアについても、一方が可算名詞、他方が不可算名詞であるのも理解できるだろう。

(5) She handed me a glass.
(6) This bowl is made of glass.

(7) Could you lend me a pencil?
(8) Don't write it in pencil; write it in ink.

(5)のglassは明確な形をもった「コップ、グラス」であり、不定冠詞があることからわかるように可算名詞であるが、(6)は境界線のない材料としての「ガラス」であり、不可算名詞である。同様に、(7)のpencilは一本の「鉛筆」を表しているため可算名詞だが、(8)では書類を書くのに必要な手段であり、「鉛筆」の本数や形状を意識したりせず、不可算名詞である(それは、インクと対比していることからもわかる)。日本語には、可算名詞、不可算名詞という文法上の区別がないので、なかなかわかりづらいところがあるが、「髪」と「髪の毛」のような違いだと思えば、その違いも納得しやすいのではないだろうか。

それにしても、このような微妙な使い分けを自然と行っていると思うと、改めてことばっておもしろいなと思うし、日本語でも英語でも同じようなことを区別する場合があるのに、その区別をどのような手段によって行うかが異なるというのも、おもしろい。ほかにもこういう使い分けをしている表現はないだろうか、ほかの言語ではどうだろうかと、どんどん考えたくなる。

*****

今回の内容は、先日の公開講座でもお話しした内容です。もともと、大学院の友達との会話がきっかけで思いついた内容で、日々こんな話ばかりしています(笑)。なお、英語の例(3)-(8)は、久野ワ・高見健一著『謎解きの英文法 冠詞と名詞』の7ページに載っているものです。英語の名詞、冠詞に興味がある方には、おすすめの一冊です。

謎解きの英文法 冠詞と名詞 -
久野ワ・高見健一
謎解きの英文法―冠詞と名詞
くろしお出版


関連記事:
公開講座のお知らせ「なんでそんなふうに言ったんだろう?〜「なぜ」に迫る言語学〜」
公開講座を終えて
posted by ダイスケ at 16:51| Comment(0) | ことば | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月22日

忘れ物として回収させて頂く場合がございます

もう1ヶ月以上前ですが、先日ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン2014に行ってきました。ラ・フォル・ジュルネは、もともとはフランスのクラシック音楽の祭典で、短期間の間にたくさんのコンサートが行われます。それの日本版であるラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポンは、毎年ゴールデンウィークに行われていて、今までに何度か行ったことがあります。今回は、チャイコフスキーの「ピアノ協奏曲第1番」などを聞いてきました。

今回取り上げたいのはコンサートの話ではなく、そこで見かけた看板についてです。日ごろから、気になる表現を見つけたら写真に撮っておくようにしているのですが、コンサート会場にもおもしろい表現がありました。

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「お手荷物やパンフレットでの席確保は、ご遠慮ください。忘れ物として回収させて頂くことがございます。」

意味は十分にわかるし、看板として問題があると言うつもりもないのですが、一点おやっと思ったところがあります。「回収」の使い方です。

「回収」の意味について考えてみます。「回」はまわる、あるいは、まわった結果元の場所に戻る、というときに使い、特に後者の用法には「回帰」「挽回」などがあります。「収」は集める、取りまとめるという意味で、「収集」「収穫」といった表現に使われます。

この「回」と「収」を合わせた「回収」は、「所有していたものを手放し、再びそれを自分の元に集める」といった意味になると考えてよいでしょう。「アンケートを回収する」「商品に不備があったため回収する」といった用例があります。したがって、「忘れ物を回収する」は「(忘れ物をした人が)忘れ物を自分の手元に取り戻す」という意味で使うものだと言えるでしょう。

看板を見て引っかかったのは、忘れ物を回収する主体が、忘れ物をした人ではなくて、会場の運営側だということです。この場合、物を手放した人とそれを集める人が同じではありません。「回収」が上記で述べたような意味だとすると、看板が警告しているような出来事は「回収」とは言いにくいことになります。

もしかしたら、運営側は「没収」や「撤収」などの語を最初に思い浮かべたものの、それらは否定的なイメージがつきまとうので、もう少し穏やかな語を探して、「収」つながりで「回収」にたどりついたのかもしれません。もしそうであれば、「回収」という語が選ばれたのもわかる気がします。

結局、コンサートそのものよりもこの看板のほうが印象に残ってしまいましたが、日本語について考えるよいきっかけになりましたし、ちょっと変わった表現を見たときの違和感がどこからくるのか探り出すのは楽しいことなので、それはそれでよかったです。


*****

「回収」の意味についての補足

「回収」で少し注意が必要なのは、「廃品回収」「資源回収」などの使い方です。廃品を回収する場合、廃品が元々の製造業者の手に戻るわけではないでしょう。では、「廃品回収」は単に廃品を集めるだけの意味なのかというと、そうではないと思います。廃品の再利用、リサイクルが目的で集める場合にしか「廃品回収」とは言えないのではないでしょうか。そうであれば、(a) 製品を製造・加工する者→ (b) 製品を利用する者→ (a') 製品を(再)加工する者という流れができ、厳密には (a) と (a') が同じではなくても、「回収」の枠に収まるのだと言えます。

生ごみを家庭からごみ処理場に運ぶ車は「ごみ収集車」であって、「ごみ回収車」はちょっとおかしい気がするのですが、もしこの直感を他の人にも受け入れてもらえるなら、それは生ごみは処理するだけで再利用することが前提ではないから、「廃品回収」と違い「ごみ回収」とは言えないからだ、という説明になります。このあたりの区別はあいまいにして使われることもあるかもしれませんが。
posted by ダイスケ at 23:24| Comment(0) | ことば | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年03月31日

ウクライナ、ゆかり、品川

最近はウクライナについての報道が多いが、ウクライナ(Ukraine)は英語で発音すると、「ウクライナ」のような音にはならない。「ユクレイン」に近い音になるのだ(発音記号は/jukréɪn/)。"u"を「ウ」ではなく「ユ」のように発音している。基本的に単語の頭にuがあるとき、英語では基本的にuを「ウ」と発音しない。たとえば、usualやuseは「ユ」、upやuncleは「ア」のような音になる。

英語では語頭のuは「ウ」と読まないというのは、英文学の先生から聞いたのだが、そのときのエピソードがおもしろくて今でも覚えている。英文学の先生が語頭のuの話題を出したのは、イギリス人とのやりとりの話をしたときだった。その先生が日本好きのイギリス人とメールをしているときに、ご飯にかける紫色のものは何だという話になったらしい(マニアックな質問だ)。

紫色のごはんにかけるものとはゆかりのことだ。その先生は「ゆかり」をどのように綴るかを考えた。ローマ字通りに綴ればyukariとなるが、英語では語頭に「ユ」の音を出す場合、外来語を除けばyuではなくuを使うとわかっていたので、英語らしく綴るならukariのほうがいいのではないかと、その先生は気を遣ってそう綴った。

しかし、そのイギリス人は日本語のことをよくわかっていたのでukariをウカリと読んでしまい、デパートでゆかりを見つけることができなかったそうだ。ちなみに、イギリスにもゆかりを売っているところがあるらしい。

この話を聞いて思ったのは、ことばというのは、伝える相手に合わせて発信するべきものなんだということだ。日本のものを英語で伝える場合、一見すると日本語の音をアルファベットに機械的に置き換えるしかないように思えるが、相手の言語のことを考えればよりよい綴り方があるかもしれない。今回の場合、英文学の先生が先回りして考えたことでかえって誤解のもとになってしまったが、でもそうやって相手のことを思いやってことばを使うという姿勢は学びたいと思った。

品川という駅を外国語話者に伝えたい場合、shinagawaと書けばそれで通じるかもしれないが、相手がドイツ語話者の場合はschinagawaと書いたほうが親切かもしれない(英語のshの綴りで表される音は、ドイツ語ではschと綴られる)。だれにとっても最適な伝え方があるわけではなく、相手に応じたことばづかいをするというのは、何も特別なことを言っていないような気がするが、これが外国語になると案外忘れられてしまう。もちろん、いつでも適切なことばを選択できるほどこちらにその言語の運用能力があるとは限らないし、工夫した結果が裏目に出ることもあるかもしれないが、そういう気持ちがあるかどうかは大事なことだと思う。
posted by ダイスケ at 23:59| Comment(0) | ことば | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年02月26日

東京・品川行き、間もなくの発車です

先日、後輩の大学院生といっしょに居酒屋で飲んでいたら、店員に話しかけられた。「お客様、言語にお詳しいようですが、あちらのお客様がお聞きしたいことがあるとおっしゃっていまして」とのことだった。

飲みに行っても、話題はやはり言語に関することが多い。そんな会話を聞いていた別の客が、日頃のことばに関する疑問を聞いてみたいと思ったようだ。居酒屋の常連客らしいその客がこっちのほうを向いて直接質問をしてきた。

質問の内容は、駅員が「東京・品川行き、間もなくの発車です」と言っているのを聞くが、その日本語は間違っているのではないか、ということであった。気になるのは「間もなくの発車」の部分らしい。「間もなく発車します」はいいが、「間もなくの発車(です)」はおかしく感じられる、というのだ。

今まで考えたことはなかったが、なかなかおもしろいことだなと思った。「XのY」という表現を考えた場合、典型的にはXとYの両方に名詞がくる。「太郎の息子」「花子の本」「次朗の到着」などである。しかし、「間もなくの発車」の場合、Xの位置にある「間もなく」は名詞ではない。「間もなく」は、「間もなく出発する」という言い方が可能なように動詞修飾をしていて、かつ活用しないので副詞だと考えてよいだろう。(「間もなく」はもともとは「間+も+なく」から成り立っていると思うが、ここではこれで一語扱いをする)

「わざと間違える」「やむなく中止する」(副詞+動詞)と言えても、「わざとの間違い」「やむなくの中止」(副詞+の+名詞)とはちょっと言いづらいように、「XのY」の表現においてXが副詞のパターンは不自然になるように思える。ただ、一部の副詞の場合そのような表現もある程度許容されるようだ。

(1) 突然の訪問をお許しください。(cf. 突然訪問する)
(2) ゆっくりの演奏ではつまらない。(cf. ゆっくり演奏する)
(3) なんとなくの読書では内容が頭に入らない。(cf. なんとなく読書する)

(1)-(3)は自分で考えた例文だが、みなさんにとってはいかがだろうか。自分としてはあまり違和感なく使える表現だが、人によってはややインフォーマルな印象をもったり、あるいは不自然だと感じるだろう。逆にまったく問題ないという人もいるかもしれない(個人的には特に(1)は自然な気がする)。(1)や(2)のように、動作の時間や速度に関するものについては比較的言いやすいような気がするが、どうなんだろう。今後も考えてみたいと思った。

居酒屋ではここまでちゃんとした提示はしなかったが、質問をしてきた客に次の3点は伝えた。

(a) 他にも「副詞+の+名詞」という表現はあること
(b) だから「間もなくの発車」は間違いとまでは言えないかもしれないこと
(c) 「間もなくの発車」は自分としてはそれほど違和感がないが、「間もなく発車する」に比べたらやや不自然かもしれないこと

そんな感じで、自分としては誠実に答えたつもりだったし、相手もなるほどという顔をしていたのだが、あとでその人が店員と会話するのを聞いて、複雑な気持ちになってしまった。店員が「疑問は解決されましたか」と言うと、客は「ええ。やはりちょっとおかしいと言っていました」と答えていた。たしかに、「やや不自然かもしれない」とは言ったがそれだけを言ったわけではないし、ちゃんと言ったことが伝わっていなかったかなとも思った。しかし、その客にとってはその表現が正しいか間違っているかに関心があり、しかも単に間違っているというサポートがほしいだけだったのかもしれない。だとしたら、そのような答え方になってしまうのもしょうがない。残念ではあるけど。

よく誤解されるが、言語学は言語の実態を解明するのが目的であり、テストの採点者のようにある表現が正しいか間違いかを決めるのは守備範囲ではない。だから、ちょっと気になることばづかいに対しても、ことばの乱れだと怒るのではなくて、そこにどんな仕組みがあるのだろうと身を乗り出すのが言語学者である。言語学の考え方に慣れた自分にとっては、単に正誤のみを問題にされるとさびしい気持ちになる。それが一般的なことばへの関心なのかもしれないが、正誤以外にもことばへの接し方があることを発信できたらいいなというのは、考えてみればブログを始めたきっかけでもある。そんなことを思い出したやりとりだった。

それにしても、案外他人に会話って聞かれているものなんだな。「身体部位所有者上昇構文」などの怪しい用語で盛り上がっていた人たちに、よく質問してみる気になったなと思った(笑)。
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2013年07月31日

おれたち語、わたしたち語:若者ことばについて考える

「もっと個性的な生き方したいと思ってるから、ことばだってもっと自分の自由に使いたい。今からみんなと同じ日本語やめて「おれ語」しゃべるわ。ポポ、ンポテコポ」などと言われたら、困ってしまう。そんな人とはコミュニケーションができない。

これが意味することは何か。それは、(日本語などの)言語は個人のものではなくて、みんなに共有されているものでなければならない、ということだ。伝えたい内容は何であれ、伝える道具である言語は、少なくとも、伝えたい人自身と伝えたい相手の間では相互に理解可能である必要がある。

これは、よく考えるとおもしろいことかもしれない。個人の体験は一人一人に特有のものである。そして、他の人とは違う「おれ」や「わたし」を認めてほしいという欲求がある。誰かに自分の体験談を話して、「あぁ、そんな話を別の人からも聞いたことがあるよ」などとと言われてしまったら、がっかりするものだ。それにもかかわらず、伝えるための道具は好き勝手な物を使っていいということにはならない。「みんなの道具」を借りなければ、話を理解してもらい共感してもらうことはできないのだ。

言語のそのような性質からいって、自分特有の(他の誰にも伝わらない)「おれ語」や「わたし語」というのは存在し得ないのだが、「おれたち語」や「わたしたち語」という形でならある程度は成り立つ。その一つが「若者ことば」である。

若者ことばを「ある特定の若者のコミュニティでしか通じないないことば(づかい)」だと捉えると、それは言語のみんなが共有しているという性質の一部を犠牲にして、そのコミュニティの個性や独自性を優先させたものだと言ってよいだろう。言語はだれかに何かを伝えるためにあるのだが、伝わらない相手をあえて作り出すことによって、「おれたち」「わたしたち」の結束力は高まるのである。そう考えるほうが、若者が無知なせいでことばが乱れていると言うよりも、若者ことばが生まれる理由が理解できるように思える。方言がなくならないのはなぜか、ウェブ特有のことばづかいが生まれるのはなぜか、という問いにも同じ答え方ができそうだ。

「みんな」の一部に還元されたくない、でも一人で孤立するのは嫌、「おれたち」や「わたしたち」という形でならつながりたい、そんな欲求があるなら、「おれたち語」「わたしたち語」としての若者ことばは生まれ続けるのだろう。
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2013年03月13日

認知言語学における「捉え方」:言語学を学ぶきっかけ

前回は、認知言語学のキーワードとして「捉え方」を紹介しました。
認知言語学キーワード紹介(1):捉え方

実は、この「捉え方」というキーワードは、ぼくが言語学を学ぶきっかけにもなったものです。中学や高校で英語を学んでみると、似たようなことを表すのに複数の表現があることがわかり、それらがどう使い分けられているのかなあと気になっていたのです。英語の先生に聞いてみたり、辞書に似ている表現の意味の違いが説明されているとメモしてみたり。

その後、大学に行って、言語学の中でも認知言語学と呼ばれる分野では「捉え方」を重視しているのを知りました。一見同じように見える表現でも、言い方が異なるならばそれは「捉え方」の違いを反映しているのであり、意味にも違いがある。認知言語学の本にそう書かれているのを見て、わくわくしました。そして、もっとそういうことが知りたいなと思い、言語学で卒論を書くことを決め、大学院にも進学することにしました。

「捉え方」は、自分にとって思い入れのある用語だったので、それを紹介した記事にフェイスブックの「いいね」がつくことは、すごくうれしかったです。なお、「捉え方」については、以下の記事でも言及しているので、もしよかったらこちらもご覧ください。

I am making slow progress. ― ことばがつくる現実
「上り坂」と「下り坂」
posted by ダイスケ at 23:26| Comment(0) | ことば | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年12月24日

マイク・タイソンの発言から考える英語のしくみ

I will take Lennox's title, his soul and smear his pompous brains all over the ring when I hit him.

1. はじめに
2002年、世界中のボクシングファンが待ち望んだヘビー級の頂上決戦が行われた。レノックス・ルイス対マイク・タイソン戦である。過激な発言が注目を集めるタイソンであったが、この試合の前にルイスに向けて言ったのが上記の一言である。今回は、この表現について考えてみたい。

考察にあたっては、タイソンの人間性や彼の生い立ちからアプローチすることも可能であろう。しかし、彼が英語話者であり、またその発言を理解するのも英語話者であるなら、この一言をタイソンという固有性を取り去った、ひとつの英文として捉えることも可能であるはずだ。そうであるなら、この一風変わった表現の意味から、英語話者に共有されている言語知識、英語のしくみの一端を考えるきっかけを得られるのではないかと思う。今回は、特にsmear his pompous brains all over the ringという部分に注目する。

2. 意味の多面性
I picked up the phone.(電話を取った)とThe phone rang.(電話が鳴った)におけるphoneはどちらも「電話(器)」に相当するが、前者では受話器、後者ではベル音に焦点が当たっており、その点では両者の指す意味は厳密に言えばずれている。しかし、両者は密接に結びついており、(1)のように言っても違和感がないように、同時に焦点が当たることもある。

(1) The phone kept ringing, but no one bothered to pick it up.(電話は鳴り続けたが、わざわざ電話を取る人はいなかった)

これと似た現象が上記でも起こっていると考えると、今回の表現からはどのような意味が読み取れるだろうか。

3. brainに着目して
まず、smear his pompous brains all over the ringという表現のうち、brainに着目しよう。brainは、焦点の当たる箇所により、物理的な臓器としての「脳、脳みそ」、またはその脳の活動に基づく「知力、知能」という意味をもつ。前者に焦点を当てた用法として(2)、後者に焦点を当てた用法として(3)などがある。

(2) The shot blew her brains out.(その一発が彼女の脳みそを吹き飛ばした)
(3) May I pick your brains?(知恵を貸してくれないか)

これを踏まえて、smear his pompous brains all over the ringを2段階に分けて考えたい。

3.1. his pompous brains
pompous「気取った、横柄な」は人間の態度・考えについて言及する語なので、この語に修飾されるbrainは臓器というより「知能」(というか「考え方」)に近い意味で用いられていると考えられる。

3.2. smear his brains all over the ring
smearは「塗りつける」という意味だが、 overと共に使われるときには、汚れたものを塗ることが多い(smear blood over the mirror 鏡を血まみれにする)。塗りつけるものが物理的なものであるとすると、このbrainは「脳、脳みそ」の意味であり、それは対戦相手を殴った(when I hit him)結果飛び散るもの(血のイメージとも重なる)であると考えられる。

3.3. 全体の意味
3.1と3.2を考えると、それぞれbrainの意味の別の部分に焦点が当たっており、それらが同時に活性化されていることがわかる。全体で「気取ったあいつの頭をかちわって、リングを血まみれにしてやろう」のような意味になるだろう。

4. 多面性と選択のプロセス
一見不思議に思えるsmear his pompous brains all over the ringという表現であったが、brainの意味を二段階に分けて考えれば、それが意味するところも判明する。このような二つの意味を同時に想起させる表現を用いた点にマイク・タイソンの独創性が見られる。しかし、今回説明したような語の意味に見られる多面性と、多面的な中からどの面が選択されるかが共に使われる語によって決まるプロセス自体は、例文(1)のphoneの用法でも確認したように、今回の例に特有のものではなく、様々な表現で見られる重要な英語のしくみの一部であり、英語話者の間で広く共有されているものだと考えられる。

学校の国語の授業で小説や俳句などを扱うときには、作者や登場人物がわかっていれば、できるだけその情報を考慮した上で作中の表現を扱うということが多いのかもしれないし、それがことばについて考える自然なアプローチだと思うかもしれない。しかし、そういった情報にできる限り依拠せず、当該言語にどのようなしくみが備わっているのかを考えることもできる。そいういったアプローチは、その表現そのものをより深く味わう上でも、その言語をよりよく理解する上でも重要だろう。

参考文献
(1)の例文およびその説明は、次の論文を参考にしている。ただし、言語学になじみのない人に伝えるという趣旨から、言語学の用語は基本的に使わずに説明した。

西村義樹. 2008. 換喩の認知言語学. 森雄一ほか(編). 『ことばのダイナミズム』 71-88. 東京: くろしお出版.
posted by ダイスケ at 23:08| Comment(0) | ことば | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年12月23日

「ことば」と「言語」

「言語学」とは何かと問われれば、それは言語を扱う学問なのだが、「言語」という語がわかりづらいこともあって、言語学のイメージが湧かない、とっつきづらいという印象を受けるかもしれない。

「言語」と似ている語に「ことば(言葉)」がある。前者が音読みの漢字から成る漢語で、どこか堅苦しいイメージがあるのに対して、後者が訓読みで日常的にもよく使われる和語であるという違いはあるが、意味はだいたい同じように思われる。たとえば、次のような場合では、「ことば」と「言語」を入れ替えても問題ないだろう。

(1)
a. スイスで使われていることばは何ですか?
b. スイスで使われている言語は何ですか?

その一方で、(2)や(3)では、「ことば」と「言語」は入れ替えできない(*の記号は、例文が不自然であり、容認できないことを表す)。

(2)
a. 昨日、友達に励ましてもらいました。その温かいことばのおかげで、がんばれそうです。
b. 昨日、友達に励ましてもらいました。*その温かい言語のおかげで、がんばれそうです。

次の例はどうだろうか。「ことば」と「言語」のどちらを使っても、日本語の文としてはおかしくないと思われる。

(3)
a. 私のことばは、彼には通じなかった。
b. 私の言語は、彼には通じなかった。

(3a)は二通りの解釈が可能だと思う。ひとつは、「私は日本語で話しかけたけれど、外国人である彼には、私のことば(日本語)がわからなかった」といった解釈である。この場合、(3b)とほぼ同じ意味だと言ってよいだろう。もうひとつの解釈は、「通じない」を「冗談が通じない」における場合と同じような用法と考えて、「私の発言の意義を納得してもらえなかった」ような状況を指すものである。この場合、(3b)に置き換えることはできない。

このようなことを考えると、「ことば」と「言語」は常に同じように使えるわけではないことがわかる。(1)のように、ことばを使用する個々の人をいちいち思い浮かべないで、抽象的にことば全体を捉えるときには、「ことば」も「言語」も用いることができる。一方、(2)を見ると、「ことば」は特定の個人が特定の状況で言ったもの(ある友達が、励ますという目的のために、ある時間にある場所で言った具体的なセリフ)を指すときには、「ことば」は問題ないが「言語」は不向きである。つまり、「ことば」の方が使用範囲が広いのだと言える。(3a)の意味が二通りに解釈可能なのは、その反映である。

冒頭で言語学は言語を扱う学問であると言ったが、そこで扱われる「言語」とは、上記に述べたことを考慮するなら、次のようにまとめることができる。

(4)言語学は、ことばを使用する個々人の活動ではなく、ある共同体が共有している抽象的なものとしてのことばを扱う学問である

では、そのような言語学的な関心をもってことばを眺めると、どのような分析ができるのか。次回は実際に英語の分析をしてみることにする。

続編:マイク・タイソンの発言から考える英語のしくみ
タグ:言語学
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2012年07月06日

「何の変哲もない」の「変哲」って?

あたりはまだ明るかったので、それは何の変哲もない黒い水辺の虫にしか見えなかったが、突撃隊はそれは間違いなく螢だと主張した。螢のことはよく知ってるんだ、と彼は言ったし、僕の方にはとくにそれを否定する理由も根拠もなかった。よろしい、それは螢なのだ。
村上春樹『ノルウェイの森(上)』講談社文庫 pp. 94-95.

日本語の勉強をしている外国人に、「何の変哲もない」という表現の意味を尋ねられたら、なんと答えるだろうか。自分の母語でも、急に尋ねられるとなかなかうまく答えられないものだが、落ち着けば〈変わったところがない〉などと答えられるだろう。

では、「変哲」の意味を尋ねられたらどうだろうか。これは返答に困る。おそらく、そんな質問をされるまで、「変哲」の意味なんて考えたことがないという人が多いだろう。人によっては、次のように考えるかもしれない。

(1) 「何の変哲もない」は、「何のXもない」+「変哲」(Xに「変哲」を入れる)という成り立ちをしている
(2) 「何のXもない」は〈Xがない〉ことを強調する表現である
(3) 「何の変哲もない」の意味〈変わったところがない〉から、「何のXもない」の意味〈Xがない〉を引き算すれば、「変哲」の意味〈変わったところ〉が導き出せる

『明鏡国語辞典』を引いてみても「普通と違っていること。変わっていること。」と書かれているので、そのような考え方は間違ってはいないのだろう。だが、「変哲」の意味を〈変わったところ〉と答えてよいのか戸惑う人もいるはずだ。たしかに、「何のXもない」という表現自体は他にたくさんあり、「何の変哲もない」もそのグループの一員であると言えそうだ。実際、(6)や(7)などは、意味も「何の変哲もない」にかなり近い。

(4) 何の違いもない
(5) 何の変化もない
(6) 何の特徴もない
(7) 何の面白味もない

しかし、これらと「何の変哲もない」が違うのは、「変哲」がほとんど「何の変哲もない」という形でしか使わないことである。(5)のように「変化」であれば、「何の変化もない」以外に「変化がある」「変化に気づく」など、他のことばとの組み合わせも可能であるが、「変哲」ではそのようなことがない。そのため、「変哲」単独の意味を知ることはあまり有意義ではなく、「何の変哲もない」全体の意味がわかればそれで十分であるとも言える。「変哲」の意味を尋ねてくる日本語学習者は、そうした事実を知らないかもしれないので、「変哲」の意味が何であるか以上に、「何の変哲もない」という決まった表現として用いることを伝える必要があるだろう。(まぁ、外国語学習では、必ずしも実用的でないことまで聞いてみたくなるので、もし実際に聞かれることがあったら、「変哲」の意味なんてしらなくていいよ、などと学習意欲をそぐようなことは言わないが)

同じような例は英語にもある。英語のby dint of ... は、「...によって、...の力で」を意味する表現だが、dintはこの形でしか用いられない。Longman Dictionary of Contemporary Englishでは、dint単独の意味は載せておらず、by dint of ... の意味と(8)の例文のみ載せている。そのため、dint単独ではなく、by dint of ... という形でしっかり覚えるべきである。

(8) By dint of hard work and persistence, she had got the job of manager.

ただ、dintはこれ以外のことばと結びつかなくても、by X of ... という表現は他にもある。

(9) by means of ...(...によって、...を使って)
(10) by virture of ...(...によって、...のおかげで)
(11) by reason of ...(...のために、...の理由で)

(9-11)は意味の上でもby dint of ...に似ているし、(10)などはby dint of... の代わりに使うことも場合によってはできるだろう。そのため、by dint of ... もby X of ... のグループに属していると言えるのだが、dintが他の表現に現れない点が、(9-11)と異なる。英語話者に尋ねたことはないが、dintの意味は何か聞いてみれば、日本人が「変哲」の意味を聞かれるのと同じような反応をするのではないかと思う。

私たちが言語の意味を考えるとき、漠然と【部分の意味を足し算すれば表現全体の意味が得られる】ように考えている。しかし、ここで取り上げた二つの表現は、「何のXもない」とby X of ... にそれぞれ「変哲」とdintを足しているかのような形をしているし、類似の成り立ちの表現と共通する意味があるのに、肝心のXの意味はわからないまま使われている。このことは、私たちは必ずしも部分の足し算をして表現をつくっているとは限らないこと、単独の語よりももっと大きい語句の方が意味の基本単位になりうることを示している。

「何の変哲もない」は、それこそ何の変哲もない表現だが、実は、言語にとって【語の足し算をするというのはどういうことなのか】【意味のありかはどこか】を考えるきっかけにもなる。
タグ:英語 日本語
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2012年05月06日

「大学芋」からことばの不思議へ

ことばはコミュニケーションや思考の道具である、とよく言われる。私たちが道具について抱く関心の多くは、それをどう効果的に使うかであって、そのしくみについてはあまり気にしない。パソコンだったら、その使い方は調べても、その中がどうなっているかは考えないように、ことばについて関心をもつのは、うまく人に気持ちを伝えたり、自分の考えを論理的に展開させるなどの使い方についてであることが多い。

しかし、ふとした瞬間に、ことばそのものの存在が大きくなることがある。たとえば、大学芋はなぜ「大学芋」という名前なのだろう?サツマイモを油で揚げて甘いたれをかけたこの食べ物は、「大学芋」という名前とはかけ離れているように感じる。

ウェブ上で検索すれば、その名前の由来として、大学生が好んで食べたとか、大学生が作って売った説などが紹介されているのが見つかる。それらの説が正しいとすれば、現在は大学生との特別なつながりがなくなってわかりにくくなっただけで、名前に「大学」が含まれる理由があったということになる。

これで問題は解決したようにも思えるが、一方でさらなる疑問も生まれる。大学生が作る芋料理なら何でも「大学芋」と呼べるわけではないし、「芋」といってもジャガイモやサトイモではなく、サツマイモでなければならない。つまり、形の上では「大学」+「芋」なのに、その意味は、たとえ名前の由来がわかったとしても、単にその二つのことばの足し算では説明しきれない。

たまたま「大学芋」が極端なケースなだけだという印象をもつかもしれない。しかし、そういう例は案外たくさんある。

たとえば、「時計」がつくことばを考えてみよう。
「目覚まし時計」は「目を覚ます」ための「時計」。
「砂時計」は「砂」によって時間を計る「時計」。
「鳩時計」は「鳩」が小窓から出てくる「時計」。
どれをとっても、単純に二つのことばの組み合わせ以上の意味をもっている。一体どうして私たちは何の困難もなくそれらを使い分けることができているのだろうか。

私たちは、パソコンのしくみについてはよく知らないという自覚があるが、ことばについては、あまりに生活に身近な存在のせいか、なんとなくわかっているような気がしている。しかし、実際には、ことばは不思議でいっぱいである。当たり前だと思っていたものが当たり前ではないと気づくのはスリリングで、そこにどんなしくみがあるのか考えをめぐらすのはとても楽しい。このブログでは、ことばの不思議に気づく「大学芋」のような瞬間を大切に、ことばについて考えるおもしろさを紹介していきたいなと思います。
タグ:日本語
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2011年12月04日

「いさぎ悪い」という表現を考える

先日、web上で「いさぎ悪い」という表現を見た。試しに、Googleで検索して見ると、よく聞くことばの間違いとして取り上げられることもあるようだ。

ぼくが「いさぎ悪い」を見ておもしろいと思ったのは、ちょっとおかしい表現だなと思うと同時に、その意味は十分理解できることだった。

「いさぎ悪い」という表現が用いられるのには、次のような推論が関わっているのだろう。

(1)「いさぎよい」という語を、「いさぎ」+「よい(良い)」と分解
(2)「気持ち良い」に対して「気持ち悪い」のような表現があるならば、「いさぎよい(良い)」に対して「いさぎ悪い」があってもいい

もちろん、「いさぎよい」は漢字を用いれば「潔い」となることからわかるように、「いさぎ」+「よい」という組み合わせから成り立つものではない。だから、日本語として間違いだと言うことはできる。ただし、同じような間違いだとしても、次のような間違いは絶対に起こりそうにない。

(3)「誇らしい」という語を、「誇」+「らしい」と分解
(4)「男らしい」に対して「男っぽい」のような表現があるならば、「誇らしい」に対して、「誇っぽい」があってもいい

「いさぎ悪い」はつい間違えて言ってしまう人がいたり、もし言われたら違和感を覚えつつも意味が予想できる(少なくともぼくにとっては)のに対して、「誇っぽい」は間違えることはなさそうだし、万が一言われたら意味がわからないだろう。一見すると(1, 2)と(3, 4)の関係は同じであるはずなのに。こうなると、「いさぎ悪い」が生まれる何かしらの要因があるのではないかと考えたくなる。

「いさぎよい」が誤って分解され「いさぎ悪い」を生む背景には、「往生際が悪い」という表現が関わっているように思う。辞書には「往生際」という項目があり、「あきらめるときの態度や決断力」などの意味が載っている(cf. 『明鏡国語辞典』)。「往生際が悪い」という形で用いることが多いが、「往生際が良い」と表現することもできる。そして、次の場合は、「往生際良く」と「潔く」が似たような意味を表している。

(5)私は、彼ほど往生際良くあきらめることはできなかった。
(6)私は、彼ほど潔くあきらめることはできなかった。

意味が似ていていることから、ことばの成り立ちの上でも似ている、つまり「往生際」と「良い」が結びついているように、「いさぎ」と「良い」が結びついているかのように感じても不思議ではない。そして、「往生際」が「悪い」と結びつきやすいことから、その類推として「いさぎ悪い」が生まれたのだろう。だから、このような分解によって生じる「いさぎ」という要素も、「往生際」のようなものとして存在しても悪くない気がしてくる。このような類推は、「潔い」という漢字表記がなかったらもっと広まっているのかもしれない。

実際、「いさぎのよい人」とか「素直に誤りを認めるなんて、いさぎがいいね」みたいな表現もGoogleで検索すると見つかるが、これも「往生際のよい人」「往生際がいい」のように「の」や「が」を挟んでいるあたり、「いさぎ」という要素が存在するかのように扱っていることを示唆している。

「いさぎ悪い」や「いさぎがいい」という表現は、本来「潔い」という単独の要素を分解してしまった結果生まれたという意味では間違った日本語である。ただ、このような間違いが、似た意味の表現に基づく類推から生まれたものだとしたら、その発想自体は非難されるべきものではないと思う。実際、そのような本来とは異なる分解が定着してしまった例もあるし(英語のapron(エプロン)は、a napronとして用いられたものが誤ってan apronとして分解され定着したもの)、ことば遊びの資源として用いられることだってあるのだから(「焼きたて!!ジャぱん」など)。

関連記事:
ジョナさん?(英語のエプロンや「焼きたて!!ジャぱん」の話)
タグ:日本語 誤用
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2011年08月31日

oldからみたことばの不思議

中学のころ、英語でoldという語を習ったとき、変だなあと思うことがあった。oldは「古い、年を取った」ということを表す形容詞で、反対の意味の語を日本語の場合も含めて示すと、次のようになる。

(1)old - new
(2)old - young

(1')古い - 新しい
(2')年を取った - 若い

疑問に思ったことのひとつは、物が古いことと、人が年を取ったことはずいぶんと違うことを表しているような気がするのに、なぜ一つ語でその両方を表すのか、ということだ。実際、newとyoungのように別々の語を使うので、その反意語もそれぞれ違う語があってもいいのに。

もうひとつ気になったのは、日本語には(2)のoldに相当する形容詞がないことだ。「年を取った」「年老いた」「年配の」「高齢の」などの表現はあるが、それらは「新しい」や「若い」のような「-い」で終わる形容詞ではない。「若い」が形容詞なんだから、年を取ったことを表す形容詞も存在してもいいように思えるのだが、そういう日本語は存在しない。

これは「あってもよさそうなものがない」という話だが、逆にstartとbeginのように、同じような意味のものがいくつもある、つまり「なくてもよさそうなものがある」という場合もある。もちろん、「そうなっているものはそうなっているのだから、仕方がない」というのも学習する上で必要なときもある。でも、「仕方がない」のままで終わらせたくないと思った。なんとかして、ちょっとでも納得したいと思った。その延長線上に、大学院で言語学の研究をする今がある。

自分にとって、oldはことばについて意識的に考え始めるきっかけのひとつで、今もときどき思い返している。
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2011年07月16日

「上り坂」と「下り坂」

「東京には坂が多いけど、上り坂と下り坂はどちらが多いでしょう?」というのは答えることのできない質問である。なぜなら、同じ坂でも、下から見るか上から見るかによって、「上り坂」とも「下り坂」とも言えてしまうからだ。つまり、「上り坂」と「下り坂」の違いは、坂をどのような立場から捉えるかにある。

同様の例は、(1-4)においても見られる。

(1)明けの明星
(2)宵の明星
(3)コップにジュースがまだ半分ある。
(4)コップにジュースがもう半分しかない。

(1)と(2)はどちらも「金星」を指すが、それを朝見るのか、夕方見るのかが異なる。(3)と(4)はともに、同じ量のジュースについて言及しているが、(3)ではそれを肯定的に捉えているのに対して、(4)では否定的に捉えている。

以上の例から、ことばの意味は何を指示するのかだけでなく、その捉え方をも含んでいることがわかる。捉え方が異なれば、言語表現も異なる。このように捉え方を重視した言語研究を行っているのが、言語学の中でも認知言語学と呼ばれる分野である。そんなところに魅かれて、ぼくは認知言語学をはじめとした言語学をもっと勉強したいと思った。

上記の例は、認知言語学の入門書でよく取り上げられるおなじみの例なのだが、これはことばの話に限ったことではない。次第にそう思うようになった。

人生は、しばしば坂を登ることにたとえられる。坂を登り、今よりも高い位置へ行くことは、困難を乗り越え、成長することだと言われる。入学や就職における試験は、登るのが大変な坂である。そのような坂を目の前にしたとき、自分が登るべき坂がとても高いように思える。また、とても優秀な人に接すると、その人が登った坂の高さに比べて自分はなんと低い位置にいるのだろうと感じることもある。坂の頂上は霧がかかり、その道は果てしない。あとどれくらい登ればいいのか、そもそも自分には登れるのかと不安になる。

しかし、同じ坂が、捉え方によって「上り坂」に見えたり、「下り坂」に見えたりするように、人生という坂だって、見る角度を変えれば違う風景が見えるのではないだろうか。ちょっと後ろを振り向いてみれば、登っているときには目に入らなかった緑の美しさに気づく。遠くに見える街の姿から、自分が案外高いところにまで登ってきたのだとわかる。あるいは、その道中であいさつを交わした人のことを思い出すこともあるかもしれない。そうすると、もうちょっと登ってみようかという気持ちになる。

物事の捉え方はひとつではない。同じ物や出来事であっても、今見える姿がすべてではない。じゃあ、別の角度から見てみよう。そんな発想を、ぼくは言語学から学んだ。そして、それは言語研究の方法を学ぶ以上に、大切なことかもしれないと思う。
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2011年06月29日

ジョナさん?

小学3年生くらいのころ、友達とちょっとした言い争いをしたことがある。それは、小学校の近くにあったファミリー・レストラン「ジョナサン」の表記についてだった。ぼくは「ジョナサン」と全部カタカナ表記だと言ったのだが、友達は「ジョナさん」、つまり「さん」はひらがな表記だと言い張った。結局、教室の中ではどっちが正しいのか決着はつかなかったが、後日ジョナサンを通りかかった時、自分の答えが正しかったことを確認したのだった。

その友達は「ジョナさん」という表記に自信満々だったのだが、間違えた気持もわからなくはない。この場合、「ジョナサン」はそれ自体単独の要素ではなく、「ジョナ」+「-さん」に分解されているのだが、「田中さん」「佐藤さん」の仲間として「ジョナさん」があってもいいような気もしてくる。ちなみに、「ジョナサン」の英語表記はJonathan'sで、ジョナサンという人の店ということなので、案外「ジョナさん」というのも、人を表している点では悪くない(?)のかもしれない。

さて、「ジョナさん」みたいに誤解する例はあまり多くないが、このような本来とは異なる分解の仕方が定着してしまうこともある。たとえば、英語のapron(エプロン)は、かつてはnapronという形だった。しかし、不定冠詞を伴ってa napronとして用いられたのが誤ってan apronと分解され、結局現在のapronという形になった。このような現象は異分析(metanalysis)と呼ばれている。

逆に、このような異分析をことば遊びとして効果的に利用する場合もある。「フランスパン」は「フランス」+「パン」に分解することができるが、/-pan/という音で終わる「ジャパン」はこれ以上分けることができない。このような音の同一性を利用したのが、「焼きたて!!ジャぱん」(少年サンデーに連載していた漫画)で、表記の点でもあえて「ぱん」をひらがなにしているのがおもしろい。

今回は、「ジョナサン」と「ジョナさん」の表記の話から始めたが、そもそも同じ/-san/という音で終わるかたまりが、「ジョナサン」のときはひとつの要素だったり、「田中さん」のときには二つの要素の足し算だったりするというのは、考えてみれば不思議なことだ。今でも友達とけんかをした日のことはけっこう鮮明に覚えているけど、これもことばの仕組みについて考え始めるきっかけになっているのかなと思う。
タグ:日本語 誤用
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2011年05月21日

ことばを味わう

テレビ朝日「お願いランキング」という番組に「ちょい足しクッキング」というのがある。コンビニなどに売っている定番商品に意外な食材や調味料をちょっと加えてみると不思議とおいしい、というのを紹介するコーナーだ(本も出ている)。

「ちょい足し」がおもしろいのは、たまご+しょうゆのような当たり前の組み合わせではなく、「サッポロ一番しょうゆ味」+牛乳や「日清どん兵衛きつねうどん」+刺身など、一見ミスマッチのものが想像と違っておいしいというところにある。単なるふたつの味の組み合わせからは予測ができないような味が生まれるのだ。

ふたつの組み合わせが予測できないものになるという点では、言語にも同じような側面がある。次の(1)から(3)が指しているものは、いずれも「X焼き」という形を共有していながら異なる種類のものである。

(1)たまご焼き
(2)たい焼き
(3)たこ焼き

(1)はそのものずばり「たまご」を焼いたものだ。一方で、(2)は「たい」の形に似せて焼いたもので、実際に焼いているのは「たい」ではない。そうかと思うと、(3)では焼いているのは「たこ」というよりも「たこ」を中心とした材料である。「X焼き」の意味は「Xを焼いたもの」とは言い切れず、それが実際のところ何を指すか完全には予測できない。

さて、先ほど「ちょい足し」がおもしろいのは、味の予測ができない意外な組み合わせが紹介されるからだと書いた。では、たまご+しょうゆのような当たり前の組み合わせの場合、私たちは味が予測できているといえるのだろうか?たとえば、たまごにほんの数滴しょうゆを入れすぎただけで、私たちの舌の反応は「数滴分しょっぱくなった」ではなく、「しょっぱすぎて食べられない」となる。しょうゆの適量と入れすぎとの違いは、数値で表せば連続的なのに、味でいえば連続的とは言い切れない一面がある。

同じように、一番素直な組み合わせに思えた「X焼き」の例である「たまご焼き」も、そう単純ではない。たまごを焼けば何でも「たまご焼き」になるわけではなく、私たちはある特定の焼き方をしたものだけを「たまご焼き」と呼ぶ。そのため、たまごを焼いたが「たまご焼き」ではない(スクランブル・エッグなど)ということもありえる。「たまご焼き」も単なる足し算では捉え切れない意味を有しているわけだ。

そう考えると、なんだか料理とことばはとても似ているような気がしてくる。「意味」という語に「味」が含まれていることから、それは突飛な考えでもないのかもしれない。だったら、ことばを味わうということがあってもいい。これからも、自分がことばを味わうのはもちろん、このブログを読んでいる方々にそのおいしさを伝えていけたらいいなあと思う。
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2011年02月27日

漢文の置き字「而」と順接・逆接

2月は大学院も春休みで、この時期の大学のメインイベントは入学試験だろう。入試の日に大学に行ったので受験生をたくさん見てきたけど、もうそれから5年も経ったんだなあ。

さて、大学受験のときの勉強を思い出してみると、自分の場合、英語でも国語でも、ただ文法を覚えるだけでなく、なんでそうなっているのかと考えたりするのが好きだった。

当時不思議だなと思ったことの一つが、漢文で習う置き字の「而」の用法だ。「而」は書き下し文にする(古文に直す)ときに単独では読まない字で(読むこともあるが)、次のように順接と逆接の用法がある。
(以下、論語の例は『社会人のための漢詩漢文小百科』p. 157より)

(1)順接(「そして」「だから」などに相当する関係)
学而時之、不説乎。〈論語〉
学びて時に之を習ふ、亦た説(よろこ)ばしからずや。
(学問をして、そして然るべき折に復習するのは、なんと喜ばしいことではないか。)

(2)逆接(「しかし」「だが」などに相当する関係)
士志於道、而恥悪衣悪食者、未足与議也。〈論語〉
士 道に志して悪衣悪食を恥づる者は、未だ与に議(はか)るに足らざるなり。
(男性で、道に志しているのに、粗末な衣服や食事を恥じるような人は、まだ一緒に(道について)語り合うねうちもない。)

疑問に思ったのは、なぜ「而」は一つのことばで順接と逆接という反対の意味関係を表すことができるのだろうかということだ。日本語であれば、はっきり区別するのに。

だが、果たして順接と逆接はかけ離れた意味なのだろうか。たしかに、(3)と(4)では、順接と逆接のどちらを使うかは明らかであり、それぞれ逆の関係にするとおかしいと感じられるかもしれない。

(3)
a. 雨が降ったので、運動会は中止になった。
b. ??雨が降ったが、運動会は中止になった。

(4)
a. 雨が降ったが、運動会は行われた。
b. ??雨が降ったので、運動会は行われた。

しかし、次の場合はどうだろうか。

(5)
a. 英語が苦手なので、がんばって勉強した。
b. 英語が苦手なのに、がんばって勉強した。

(5)はどちらも自然に感じられる。英語が苦手だからこそ、それを克服しようとがんばることもあるだろうし、英語が苦手だから勉強しないだろうという周囲の予想を裏切ってがんばることもある。つまり、(5)のような例では、順接と逆接のどちらを使うかは予め決まっているものではなく、捉え方次第でどちらにもなりうる。

さらに言えば、順接も逆接も前半の文と後半の文をつなげるという機能に関しては同じである。前後の文の関係がちがうのだが、二つの出来事や状態を結びつける、関係づけるというのは人間がいてはじめて成り立つのである。そうであれば、「而」が順接と逆接の両方を表すことができたとしてもおかしいことではない。

「而」については、受験が終わってからもなんとなく頭の中に疑問が残っていたのだが、大学に入ってしばらく経ったある日、ふとそんなことを思いついた。それ以来、ぼくにとって「而」は、ことばとそれを使う人間について考えさせてくれるような、そんなイメージの漢字になった。

参考文献
田部井文雄他. 1990. 『社会人のための漢詩漢文小百科』 大修館書店.
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2011年02月15日

ことばを並べる:言語の線条性と創造性

英語を勉強しているAくんとBくんが次のような会話をしていたとしよう。

Aくん:なんか、英語の語順って変だなあ。The boy kicked the ball.って文では、なんでkickのほうがballよりも先なの?まず何を蹴るのかちゃんと意識して、それから蹴るんだから、kickよりもballのほうが大事でしょ。boy→ball→kickっていう順番で人間は理解しているんじゃない?だから、「少年はボールを蹴った」って言う日本語のほうが自然な気がする。

Bくん:そうかなあ?それよりも、少年が足を動かして、その次に足がボールに当たるんだから、boy→kick→ballの順番がいいよ。英語のThe boy kicked the ball.のほうが直感的で自然だな。

あなたなら、AくんとBくんのどちらの意見が正しいと思うだろうか。どちらかが正しいと言えるとしたら、何を証拠としてあげればよいのだろうか。人間が物を蹴るときの視線の動きや脳の神経細胞を調べればよいのだろうか。仮にそうした実験をするにしても、どのような結果がでれば正しいと言えるのかはなかなか難しそうな問題だ。

ただし、この会話でわかることが一つある。それは、何を先に言うにせよ、なんらかの順番に並べて話さなければならないということだ。当たり前のことだと思うかもしれないが、言語以外の媒体を使うならば必ずしもそうではない。

次の絵(?)を見てみよう。少年がボールを蹴った絵だと思ってほしい。
The boy kicked the ball.png


絵であれば、「少年」「ボール」「蹴る」などといちいち分解せずに一気に全体像をつかむことができる。もちろんそのうちのボールだけに注目するということは可能だが、それでも絵を全体として捉えることはできる。

しかし、言語においては、それぞれの要素を同時に提示することはできない。人間は一度にふたつの語を発するということはできず、一語ずつ並べていくしかない。言語のこのような制約は「線条性」(linearity)と呼ばれている(池上嘉彦『記号論への招待』を参照)。

そして、その並べ方も自由ではなく、基本的には言語ごとに決まっている。日本語では、「ボールを蹴る」のように目的語-動詞の順、英語ではkick the ballのように動詞-目的語の順であり、勝手にその順番を変えることはできない。英語で、ボールのほうに特に注意が向いたから今回はThe boy the ball kicked.と言ってみようなどということは、普通できないのだ。

線条性は言語にとって宿命的な制約だが、この制約があるからこそ表現できることもある。たとえば、絵を利用して(1)の二つの文、あるいは(2)の三つの文の違いを表現することはほとんど不可能だろう。それらは完全に同じ意味ではなく、話し手がある出来事や状態をどのように捉えるかというレベルで違いがあるはずだ。

(1)
a. 夕食を食べる前に本を読んだ。
b. 本を読んだ後に夕食を食べた。

(2)
a. 彼は優しさと厳しさを兼ね備えている。
b. 彼は普段は優しいが、ときどき厳しい。
c. 彼は厳しいときもあるが、普段は優しい。

言語は現実の世界をそのまま反映させる手段ではない。それは、一方では現実の認識に関わらず一定の順番で語を並べなければならないという制約を生みながら、他方では言語を使う者の世界の捉え方を表現する手段にもなる。その意味で、線条性は言語の創造性の源泉であるともいえる。

参考文献
池上嘉彦. 1984. 『記号論への招待』 岩波新書.
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2011年02月14日

名詞を使うか、動詞を使うか:「雨が降る」という表現の日英比較2

前回の記事:降らない雨はない?:「雨が降る」という表現1
前回は「雨が降る」という表現とそれに対応する英語の表現について考えてみた。
日本語では「雨」+「降る」という表現を使うのに対して、英語ではrainという動詞一語で済ませる(ただし、よくわからないitを使い、It rained last night.のようになる)のだった。

実は、英語でも「雨」をrain、「降る」をfallとすることで、日本語のように両者を分離させた表現は可能だ。

(1)
a. 雨が降りだした。
b. Rain began to fall.

これを見ると、英語は二通りの表現をもっていて、日本語よりも表現方法が多いように思える。これは、次の表現ときとは対照的でおもしろい。

(2)
a. 春が来た。
b. 春めいてきた。
c. Spring has come.

(2a)の日本語と(2c)の英語では、「春」+「来る」、spring+comeというように、名詞と動詞を使った表現だが、(2b)では「春めく」という動詞一語が同じような意味を担っている。

こうなると、意味のちがいが気になる。(2a)の「春が来た」では、春とその前の冬という季節の境目がはっきりしていて、その季節が変わったという感じがするが、(2b)の「春めく」は春らしさが感じられるようになるような、徐々に季節が移り変わっていくことを表している印象を受ける。(3)のように時間の幅を感じさせない表現といっしょに「春めく」を使うと少し不自然なのは、その違いを反映しているのだろう。

(3)
a. 昨日、春一番が吹いた。やっと春が来たね。
b. ?昨日、春一番が吹いた。やっと春めいたね。

では、it+rain式の表現とrain+fall式の表現でも何か違いがあるのだろうか。きっとあるのだろうけど、こういうのは辞書には載っていない。ちょっと考えただけでも、rain+fall式の表現では、どんなrainなのかをより限定できるし(a sprinkle of rain(小雨)など)、いっしょに使われる副詞にも違いがありそうだ。よく考えたら、We had much rain this summer.みたいな表現もあった。もしかしたら、これも論文のネタになるかもしれない。今度ちょっと調べてみようかなあ。

関連記事:春めいてきた
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