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■大学芋はなんで「大学芋」という名前?「大学」+「芋」=「大学芋」と単純にはいえない。そう考えると、ことばには不思議がいっぱい。「大学芋」をきっかけにことばについて考えるブログです!
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2011年02月04日

言語の美的機能

韻文の作文に思う存分時間配分
たぶん幾分悪文だけど、気分は十分ラッキーセブン

言語は伝達の手段であると言われることがある。何か言いたい内容がまずあって、それを表現するためにちょうどよいことばを当てはめる。たとえば、年賀状を書いている人が「去年はお世話になりました」と「昨年はお世話になりました」のどっちにするか悩んでいたら、意味は同じだからどっちでもいいのにと思うかもしれない。そのようなときには、伝える内容に対して、たまたまふたつの手段(「昨年」と「去年」)があると捉えられている。何かを伝える手段としての言語の側面は「実用的」機能と呼ばれる。実用的機能に着目すると、表現方法は内容に従属しているように思える。

一方、表現方法が内容よりも重要になることもある。早口ことばの「隣の客はよく柿食う客だ」は「隣の客は頻繁に柿を食べる客だ」などと言い換えてしまったら、まったくおもしろくなくなってしまう。実際にそんな客がいるかどうかはあまり問題にされない。その響きが大切なのだ。ことば自体のおもしろさや美しさを担う側面は、言語の「美的」(あるいは「詩的」)機能と呼ばれる。

このように書くと、実用的機能と美的機能はかけ離れたものだと思うかもしれない。たしかに新聞や報告書などの文書で美的機能を見つけるのは難しいだろうし、ことば遊びやナンセンス詩の価値は実用的機能を犠牲にした結果だといえる場合もあるだろう。

しかし、実用的機能を果たそうとして生み出した文が偶然美的機能を備えていることもある。「きのう、めっちゃ抹茶飲んだ」などと言われたら、言った本人は何とも思ってなくてもツッコミを入れたくなる。奇抜さはなくても「この構文の論文の例文の半分は英文です」は心躍る響きがある。美的機能は、コピーライターや詩人だけのものではなく、もっと身近なものである。

読まなきゃいけない論文あるのに、つい30分も時間をかけて冒頭の文を作ってしまったけど、そんな美的機能を楽しむ余裕があってもいいんじゃないかな、なんて思ったり。

参考文献
池上嘉彦. 1984. 『記号論への招待』 岩波新書.
posted by ダイスケ at 05:23| Comment(2) | ことば | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
大学芋さんの日記たまに読ませていただいてます☆私は子供の頃から国語が苦手で中高も現代文が苦手で全く言語に疎い人であります。なので専門的な内容の部分では理解に苦しむときがありますが、読んでいて面白いです。

今回の日記(言語の2つの側面)読んでいて気づいことなのですが、
俳句、短歌など字数の決められた詩についてです。
決められた字数の中で、情景や人の想いを表現することってすごいなと感じたのです。

そのような詩は、自分の伝えたいことをいかにダイレクトに表現しないかがイケてる詩じゃないですか!(コレはあくまでも私の主観です)

だから私は論文現代文よりはるかに短歌俳句は、読んでもチンプンカンプンなのです(笑)

例えば
「桜が散る」的な言葉が入った俳句があったとして、
これを私は読んで、「だから何?何が言いたいの?
ってなるんです。

いっつもこのパターン。
幸い、桜が散る ということが受験に失敗するとか失恋するっていう意味を表すことを知ってるからいいですが

短歌俳句の世界は
その言葉そのものの意味以外に裏の意味が隠されてるるんだろうなって。暗号のような?

それを知れたらどんなに面白いんだろうと思ったんです。

字数が少ないからこそ、その言葉以外の意味合いを探し、想像力が豊かになっていく。

私はそのような想像力を膨らますことに気づけなかったですけどね。
Posted by びすこ at 2011年02月07日 21:30
びすこさん、コメントありがとうございます!
読者の方にこうして反応をいただけるのは、とてもうれしいです。
あと、「大学芋さん」っていうのもかわいくてなんだかいいですね(笑)。なんだかその響きが気に入りました。

ぼくも、同じような経験があります。高校の国語の授業で俳句を扱ったときは、自分ではよくわからなかったけど、先生の解説を聞いてなるほどと感心すると同時に、なんだか作品そのものではなくて解説を鑑賞している気もして違和感もありました。

でも、俳句を含めた詩の鑑賞って、想像力を駆使して作品そのものを読み込むのがすべてでもないかなと思います。たとえば、俳句には季語が、短歌には枕詞がありますが、それらは必ずしも日常的なことば使いと同じではなく、そのジャンル特有の知識に頼ってもいいはずです。

また、作者の生い立ちや詩のつくられた状況などを知ることで初めてわかるということもありますが、それもありかなと思います。それは想像力によらない読み方というわけではなくて、そうした背景情報と作品そのものをつなげるのは想像力です。

だから、「何が言いたいの?」と思っても、ジャンルの知識や背景情報のおかげで作品との距離が縮まることもあるかもしれません。好きになるきっかけは一目ぼればかりじゃないですし。小説とかでもそういうことはあります。

ただ、暗号は解読すれば正しいメッセージが出てきますが、詩には正解はなくてもいいかなという気がします。読み手が自分の経験や考え方に応じて自由に意味を読むのも楽しみ方のひとつです。今思えば、国語の授業では正解を聞かされているようで違和感があったのかもしれません。でも、そもそも人間は「四葉のクローバーを見つけたら幸運が訪れる」のように、本来意味のないところにも意味を創り上げてしまうような「創造力」をもった生き物です。俳句でも短歌でもいろんな読み方ができて、人が意味を見出すところに自分はあまりピンとこなかったり、逆に人が見過ごしたところに何かを読み取ったりしてもと思いますよ。
Posted by ダイスケ、またの名を大学芋 at 2011年02月10日 16:21
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