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2015年03月31日

飯間浩明著『辞書を編む』を読んで

今回、新しく採用された項目の中にも、「盲点だった」と思われることばが多く入りました。たとえば 「見ろ」なんていうのもその例です。「見ろ」は動詞 「見る」の命令形でしょう、と言われるかもしれませんが、感動詞としても使います。 「見ろ、だから言わないこっちゃない」の 「見ろ」は 、「ほら」「言ったとおりだろう」といった意味合いで発することばです。動詞 「見る」として説明するよりも 、感動詞 「見ろ」を新たに立てたほうが自然です。(飯間浩明『辞書を編む』「第3章 取捨選択」より)

言語学を勉強しているというと、辞書にも詳しいと思われるかもしれないが、言語学と辞書の関係は、一般的に思われているよりは近くないのかもしれない。辞書をつくる上で言語学が生かされるのはまちがいないが、言語学の知見がそのまま利用できるというものでもない。だれに向けてどんな目的で辞書をつくるのか、使用者が望む辞書はどんなものか、商品化するにあたってどんな制約があるかなど、辞書には辞書の事情がある。言語学の研究上、さまざまな形で辞書を参照するが、とりあえず自分の場合は、それだけでは必ずしも辞書に詳しくなるわけではなかった。でも辞書のことをもっと知りたいという思いもあって、手に取ったのが飯間浩明著『辞書を編む』(光文社新書、2013年)だった。Twitterで飯間先生の日本語観察の鋭さと誠実な語り口を拝見して、飯間先生の本を一冊読んでみたいと思っていたというのもある。

『辞書を編む』では、著者の飯間先生が編纂に携わった『三省堂国語辞典 第七版』(以下、『三国』)に関する話を中心に、辞書の魅力、『三国』とほかの辞書のちがい、日々の生活の中での用例の採取、意味を記述することの難しさやおもしろさなどが語られている。説明が丁寧でわかりやすく、また飯間先生の実体験なども多く書かれているので、小説『舟を編む』で辞書に興味を持った人はもちろん、これまで特に辞書についてあまり意識したことがないという人でもきっと楽しめると思う。

読んでいて、英語学習との関連で印象に残ったことを書いておきたい。冒頭で引用したように『三国』では、「見る」のほかに「見ろ」を新項目として追加している。言われてみると、たしかに、「見ろ」は単に見ることを指示するとき以外にも使っていることに気づく。実際に『三国』を引いてみると、「見ろ、今のせりふ聞いたか」という例文が載っている。一見何の変哲もない表現のように見えるが、日本語を母語としない人からすると「見る」なのに「聞く」なのか、と混乱してしまうかもしれない。なぜ「見ろ」に人の注意を引くことばとしての用法があるかは、とりあえず深入りしないが(言語学ならそれも研究対象になる)、ある語が特定の活用形を取ったときに、ほかの活用形よりも偏った用法に特化していたり、独自の用法を発展させているというのは、英語でも見られる。

たとえば、動詞consume(消費する)は、energyやoilなどのエネルギーを表す語やtimeなど時間を表す語と使う。これがconsumingという形になると、time-consuming(時間がかかる)のようにtimeとともに使うことが顕著に増える。また、consuming passion(燃えるような情熱)のようなフレーズも比較的定着しているようだ(be consumed with passionのように、passionがほかの活用形のconsumeと使うこともないではないが、使用例はかなり少ないようだ)。

実際、英英辞典などを見ると、consumingやtime-consumingはそれぞれ独立した見出しで解説されていることが多い。英語を学習する身からすると、consumeという語を知っていると、その一活用形のconsumingをわざわざ辞書で確認しなかったりするが、こういうとろこに注意を向けていないと、consuming passionを「消費する情熱」などと考えて、わかるようなわからないような状態になったり、「時間がかかる」というときにサッとtime-consumingを思いつかなかったりするかもしれない。

このように、特定の活用形に、それ以外の活用形から必ずしも予測できない用法が見られることはわりとあって、そういった面にも気を配りながら英語を学習するのが重要になるのだが、個人的にはそれを日本語を例にして実感できるような思いで本書を読んでいた。辞書づくりと外国語学習は、意外と似たところもあるのかもしれない。

ほかにも「来る」とは別に「来た」を新項目として立てた話も出てくる。人に何か頼まれたときに答える「よし来た」という用法や「コンビニもないときたもんだ」といった用法では、たしかに「来る」とは(関連しつつも)だいぶ離れた用法だと感じられる。それでも、母語話者としては特に違和感もなく普通に使っているところがおもしろいなと思う。日本語の辞書をつくる人というのは、まるで日本語を自分が知らない言語であるかのように新鮮な気持ちで眺めることが必要なのだろう。飯間先生の観察には、そういう新鮮さにあふれていて、読んでいて爽快感があった。

あと、「潔い」が「いさぎ・よい」と分解されたことから生じる「いさぎのよい」「いさぎない」などについても言及があった。これについては、「「いさぎ悪い」という表現を考える」という記事で自分も以前取り上げたことがあって、飯間先生と同じ現象に関心をもったことをうれしく感じた。

ちょうど『三国 第七版』の編纂中に書かれた本なので、『三国』の改訂に関わる話が多いが、この本を読んだらきっと『三国』を手に取ってみたくなるだろう。現在はスマートフォン用のアプリ版も出ているので、さらに気軽に『三国』に触れることができる。

なお、英語のconsumeの話は、以下の本を参考にした。実際に自分でもコーパスと呼ばれる用例のデータベースを検索してみた(Corpus of Contemporary American English)。
Stubbs, Michael. 2001. Words and Phrases: Corpus Studies of Lexical Semantics. Oxford: Blackwell.

辞書を編む (光文社新書) -
飯間浩明
辞書を編む
光文社新書


三省堂国語辞典 第七版 -
三省堂国語辞典 第七版

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posted by ダイスケ at 23:59| Comment(0) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする