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■大学芋はなんで「大学芋」という名前?「大学」+「芋」=「大学芋」と単純にはいえない。そう考えると、ことばには不思議がいっぱい。「大学芋」をきっかけにことばについて考えるブログです!
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2011年12月28日

英語の文法書

英語の文法書といえば、『ロイヤル英文法』や『Forest』が有名なのではないかと思う。英語を学習する上で、こうした文法書があると、忘れていた文法項目を確認したり、体系的な理解ができたりと何かと便利である。

英語の文法書にもいろいろあるが、世界最高水準の文法書といえば、次の3冊が挙げられる。
[1] A Comprehensive Grammar of the English Language (Quirk et al., Longman, 1985)
[2] Longman Grammar of Spoken and Written Engilsh (Biber et al., Longman, 1999)
[3] The Cambridge Grammar of the English Language (Huddleston and Pullum, CUP, 2002)

これらは英語学習のためではなく、英語研究のための文法書。[1]は1985年に出版されたものだが、包括的で緻密な記述ゆえに25年以上経った現在でも高い権威を保っている。ただ、その後も[2]や[3]のような文法書が登場しているということは、どんな文法書でも完璧ということはないということを意味しているのだろう。実際、英語研究の論文ではこれらを研究の出発点として、まだ記述されていない文法現象を明らかにしたり、新しい視点からの文法の説明を提案したりしている。

[1]と[3]は約1800ページ、[2]は約1200ページというかなりの厚さ。この厚さは著者たちのかけた時間と労力と情熱を物語っている。それを思うと、こういう文法書が存在するということに感動してしまう。このような巨人の肩の上に立つことができる喜びを感じつつ、締め切りの迫った修士論文をがんばりたいと思います。
ラベル:日記 英語
posted by ダイスケ at 04:29| Comment(0) | 日々の出来事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月04日

「いさぎ悪い」という表現を考える

先日、web上で「いさぎ悪い」という表現を見た。試しに、Googleで検索して見ると、よく聞くことばの間違いとして取り上げられることもあるようだ。

ぼくが「いさぎ悪い」を見ておもしろいと思ったのは、ちょっとおかしい表現だなと思うと同時に、その意味は十分理解できることだった。

「いさぎ悪い」という表現が用いられるのには、次のような推論が関わっているのだろう。

(1)「いさぎよい」という語を、「いさぎ」+「よい(良い)」と分解
(2)「気持ち良い」に対して「気持ち悪い」のような表現があるならば、「いさぎよい(良い)」に対して「いさぎ悪い」があってもいい

もちろん、「いさぎよい」は漢字を用いれば「潔い」となることからわかるように、「いさぎ」+「よい」という組み合わせから成り立つものではない。だから、日本語として間違いだと言うことはできる。ただし、同じような間違いだとしても、次のような間違いは絶対に起こりそうにない。

(3)「誇らしい」という語を、「誇」+「らしい」と分解
(4)「男らしい」に対して「男っぽい」のような表現があるならば、「誇らしい」に対して、「誇っぽい」があってもいい

「いさぎ悪い」はつい間違えて言ってしまう人がいたり、もし言われたら違和感を覚えつつも意味が予想できる(少なくともぼくにとっては)のに対して、「誇っぽい」は間違えることはなさそうだし、万が一言われたら意味がわからないだろう。一見すると(1, 2)と(3, 4)の関係は同じであるはずなのに。こうなると、「いさぎ悪い」が生まれる何かしらの要因があるのではないかと考えたくなる。

「いさぎよい」が誤って分解され「いさぎ悪い」を生む背景には、「往生際が悪い」という表現が関わっているように思う。辞書には「往生際」という項目があり、「あきらめるときの態度や決断力」などの意味が載っている(cf. 『明鏡国語辞典』)。「往生際が悪い」という形で用いることが多いが、「往生際が良い」と表現することもできる。そして、次の場合は、「往生際良く」と「潔く」が似たような意味を表している。

(5)私は、彼ほど往生際良くあきらめることはできなかった。
(6)私は、彼ほど潔くあきらめることはできなかった。

意味が似ていていることから、ことばの成り立ちの上でも似ている、つまり「往生際」と「良い」が結びついているように、「いさぎ」と「良い」が結びついているかのように感じても不思議ではない。そして、「往生際」が「悪い」と結びつきやすいことから、その類推として「いさぎ悪い」が生まれたのだろう。だから、このような分解によって生じる「いさぎ」という要素も、「往生際」のようなものとして存在しても悪くない気がしてくる。このような類推は、「潔い」という漢字表記がなかったらもっと広まっているのかもしれない。

実際、「いさぎのよい人」とか「素直に誤りを認めるなんて、いさぎがいいね」みたいな表現もGoogleで検索すると見つかるが、これも「往生際のよい人」「往生際がいい」のように「の」や「が」を挟んでいるあたり、「いさぎ」という要素が存在するかのように扱っていることを示唆している。

「いさぎ悪い」や「いさぎがいい」という表現は、本来「潔い」という単独の要素を分解してしまった結果生まれたという意味では間違った日本語である。ただ、このような間違いが、似た意味の表現に基づく類推から生まれたものだとしたら、その発想自体は非難されるべきものではないと思う。実際、そのような本来とは異なる分解が定着してしまった例もあるし(英語のapron(エプロン)は、a napronとして用いられたものが誤ってan apronとして分解され定着したもの)、ことば遊びの資源として用いられることだってあるのだから(「焼きたて!!ジャぱん」など)。

関連記事:
ジョナさん?(英語のエプロンや「焼きたて!!ジャぱん」の話)
ラベル:日本語 誤用
posted by ダイスケ at 03:25| Comment(0) | ことば | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする