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■大学芋はなんで「大学芋」という名前?「大学」+「芋」=「大学芋」と単純にはいえない。そう考えると、ことばには不思議がいっぱい。「大学芋」をきっかけにことばについて考えるブログです!
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2011年02月27日

漢文の置き字「而」と順接・逆接

2月は大学院も春休みで、この時期の大学のメインイベントは入学試験だろう。入試の日に大学に行ったので受験生をたくさん見てきたけど、もうそれから5年も経ったんだなあ。

さて、大学受験のときの勉強を思い出してみると、自分の場合、英語でも国語でも、ただ文法を覚えるだけでなく、なんでそうなっているのかと考えたりするのが好きだった。

当時不思議だなと思ったことの一つが、漢文で習う置き字の「而」の用法だ。「而」は書き下し文にする(古文に直す)ときに単独では読まない字で(読むこともあるが)、次のように順接と逆接の用法がある。
(以下、論語の例は『社会人のための漢詩漢文小百科』p. 157より)

(1)順接(「そして」「だから」などに相当する関係)
学而時之、不説乎。〈論語〉
学びて時に之を習ふ、亦た説(よろこ)ばしからずや。
(学問をして、そして然るべき折に復習するのは、なんと喜ばしいことではないか。)

(2)逆接(「しかし」「だが」などに相当する関係)
士志於道、而恥悪衣悪食者、未足与議也。〈論語〉
士 道に志して悪衣悪食を恥づる者は、未だ与に議(はか)るに足らざるなり。
(男性で、道に志しているのに、粗末な衣服や食事を恥じるような人は、まだ一緒に(道について)語り合うねうちもない。)

疑問に思ったのは、なぜ「而」は一つのことばで順接と逆接という反対の意味関係を表すことができるのだろうかということだ。日本語であれば、はっきり区別するのに。

だが、果たして順接と逆接はかけ離れた意味なのだろうか。たしかに、(3)と(4)では、順接と逆接のどちらを使うかは明らかであり、それぞれ逆の関係にするとおかしいと感じられるかもしれない。

(3)
a. 雨が降ったので、運動会は中止になった。
b. ??雨が降ったが、運動会は中止になった。

(4)
a. 雨が降ったが、運動会は行われた。
b. ??雨が降ったので、運動会は行われた。

しかし、次の場合はどうだろうか。

(5)
a. 英語が苦手なので、がんばって勉強した。
b. 英語が苦手なのに、がんばって勉強した。

(5)はどちらも自然に感じられる。英語が苦手だからこそ、それを克服しようとがんばることもあるだろうし、英語が苦手だから勉強しないだろうという周囲の予想を裏切ってがんばることもある。つまり、(5)のような例では、順接と逆接のどちらを使うかは予め決まっているものではなく、捉え方次第でどちらにもなりうる。

さらに言えば、順接も逆接も前半の文と後半の文をつなげるという機能に関しては同じである。前後の文の関係がちがうのだが、二つの出来事や状態を結びつける、関係づけるというのは人間がいてはじめて成り立つのである。そうであれば、「而」が順接と逆接の両方を表すことができたとしてもおかしいことではない。

「而」については、受験が終わってからもなんとなく頭の中に疑問が残っていたのだが、大学に入ってしばらく経ったある日、ふとそんなことを思いついた。それ以来、ぼくにとって「而」は、ことばとそれを使う人間について考えさせてくれるような、そんなイメージの漢字になった。

参考文献
田部井文雄他. 1990. 『社会人のための漢詩漢文小百科』 大修館書店.
posted by ダイスケ at 06:19| Comment(0) | ことば | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年02月15日

ことばを並べる:言語の線条性と創造性

英語を勉強しているAくんとBくんが次のような会話をしていたとしよう。

Aくん:なんか、英語の語順って変だなあ。The boy kicked the ball.って文では、なんでkickのほうがballよりも先なの?まず何を蹴るのかちゃんと意識して、それから蹴るんだから、kickよりもballのほうが大事でしょ。boy→ball→kickっていう順番で人間は理解しているんじゃない?だから、「少年はボールを蹴った」って言う日本語のほうが自然な気がする。

Bくん:そうかなあ?それよりも、少年が足を動かして、その次に足がボールに当たるんだから、boy→kick→ballの順番がいいよ。英語のThe boy kicked the ball.のほうが直感的で自然だな。

あなたなら、AくんとBくんのどちらの意見が正しいと思うだろうか。どちらかが正しいと言えるとしたら、何を証拠としてあげればよいのだろうか。人間が物を蹴るときの視線の動きや脳の神経細胞を調べればよいのだろうか。仮にそうした実験をするにしても、どのような結果がでれば正しいと言えるのかはなかなか難しそうな問題だ。

ただし、この会話でわかることが一つある。それは、何を先に言うにせよ、なんらかの順番に並べて話さなければならないということだ。当たり前のことだと思うかもしれないが、言語以外の媒体を使うならば必ずしもそうではない。

次の絵(?)を見てみよう。少年がボールを蹴った絵だと思ってほしい。
The boy kicked the ball.png


絵であれば、「少年」「ボール」「蹴る」などといちいち分解せずに一気に全体像をつかむことができる。もちろんそのうちのボールだけに注目するということは可能だが、それでも絵を全体として捉えることはできる。

しかし、言語においては、それぞれの要素を同時に提示することはできない。人間は一度にふたつの語を発するということはできず、一語ずつ並べていくしかない。言語のこのような制約は「線条性」(linearity)と呼ばれている(池上嘉彦『記号論への招待』を参照)。

そして、その並べ方も自由ではなく、基本的には言語ごとに決まっている。日本語では、「ボールを蹴る」のように目的語-動詞の順、英語ではkick the ballのように動詞-目的語の順であり、勝手にその順番を変えることはできない。英語で、ボールのほうに特に注意が向いたから今回はThe boy the ball kicked.と言ってみようなどということは、普通できないのだ。

線条性は言語にとって宿命的な制約だが、この制約があるからこそ表現できることもある。たとえば、絵を利用して(1)の二つの文、あるいは(2)の三つの文の違いを表現することはほとんど不可能だろう。それらは完全に同じ意味ではなく、話し手がある出来事や状態をどのように捉えるかというレベルで違いがあるはずだ。

(1)
a. 夕食を食べる前に本を読んだ。
b. 本を読んだ後に夕食を食べた。

(2)
a. 彼は優しさと厳しさを兼ね備えている。
b. 彼は普段は優しいが、ときどき厳しい。
c. 彼は厳しいときもあるが、普段は優しい。

言語は現実の世界をそのまま反映させる手段ではない。それは、一方では現実の認識に関わらず一定の順番で語を並べなければならないという制約を生みながら、他方では言語を使う者の世界の捉え方を表現する手段にもなる。その意味で、線条性は言語の創造性の源泉であるともいえる。

参考文献
池上嘉彦. 1984. 『記号論への招待』 岩波新書.
posted by ダイスケ at 00:08| Comment(0) | ことば | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年02月14日

名詞を使うか、動詞を使うか:「雨が降る」という表現の日英比較2

前回の記事:降らない雨はない?:「雨が降る」という表現1
前回は「雨が降る」という表現とそれに対応する英語の表現について考えてみた。
日本語では「雨」+「降る」という表現を使うのに対して、英語ではrainという動詞一語で済ませる(ただし、よくわからないitを使い、It rained last night.のようになる)のだった。

実は、英語でも「雨」をrain、「降る」をfallとすることで、日本語のように両者を分離させた表現は可能だ。

(1)
a. 雨が降りだした。
b. Rain began to fall.

これを見ると、英語は二通りの表現をもっていて、日本語よりも表現方法が多いように思える。これは、次の表現ときとは対照的でおもしろい。

(2)
a. 春が来た。
b. 春めいてきた。
c. Spring has come.

(2a)の日本語と(2c)の英語では、「春」+「来る」、spring+comeというように、名詞と動詞を使った表現だが、(2b)では「春めく」という動詞一語が同じような意味を担っている。

こうなると、意味のちがいが気になる。(2a)の「春が来た」では、春とその前の冬という季節の境目がはっきりしていて、その季節が変わったという感じがするが、(2b)の「春めく」は春らしさが感じられるようになるような、徐々に季節が移り変わっていくことを表している印象を受ける。(3)のように時間の幅を感じさせない表現といっしょに「春めく」を使うと少し不自然なのは、その違いを反映しているのだろう。

(3)
a. 昨日、春一番が吹いた。やっと春が来たね。
b. ?昨日、春一番が吹いた。やっと春めいたね。

では、it+rain式の表現とrain+fall式の表現でも何か違いがあるのだろうか。きっとあるのだろうけど、こういうのは辞書には載っていない。ちょっと考えただけでも、rain+fall式の表現では、どんなrainなのかをより限定できるし(a sprinkle of rain(小雨)など)、いっしょに使われる副詞にも違いがありそうだ。よく考えたら、We had much rain this summer.みたいな表現もあった。もしかしたら、これも論文のネタになるかもしれない。今度ちょっと調べてみようかなあ。

関連記事:春めいてきた
posted by ダイスケ at 02:09| Comment(0) | ことば | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年02月13日

降らない雨はない?:「雨が降る」という表現の日英比較1

中学生のときに習う英語の表現で、おそらく多くの人が不思議だなと思うものの一つが、「雨が降る」に当たる表現だ。

(1)
a. 昨晩雨が降った。
b. It rained last night.

日本語の感覚からすると、なぜitが必要なのかと思うところだ。このitは天候を表すitだとか、高校ぐらいになると非人称のitなどと呼ばれる。いずれにせよ、正体のよくわからないitを使うのだ。

さて、さっきから不思議だと言ってきた英語の表現だが、実は日本語の「雨が降る」というのも考えてみれば、何か変ではないだろうか。試しに「雨」を『明鏡国語辞典』(大修館書店、2002)で引いてみよう。(2)に定義を引用しておく。

(2)空気中の水蒸気が冷えて雲となり、水滴となって空から降ってくるもの。

つまり、「雨」の中には「降る」の意味がすでに入っているように感じるのだ。「雨」が水滴の部分だけを指しているとすれば、その水滴が「降る」というのもおかしくないのだが、おそらく私たちは「雨」と「降る」を分離して考えてはいないと思う。降ってこない水滴のことは「雨」とは呼ばない。

でも、水滴が空から落ちてきていることはたしかなので、「雨る」(雨が降るという意味の動詞があるとしたらこんな感じか?)みたいな動詞を無理やりつくるよりは、「雨」の水滴の部分に着目して「降る」という動詞を使いたい気持ちもわかる。だから、これはこれでよい気もするし、「雨」と「降る」を分離させない(その代わりよくわからないitを使う)英語のほうが潔い(?)感じもする。
要するに、どちらの言語にもそれなりに理にかなった表現をしていると言えるだろう。

「雨が降る」ということを、それ以外の表現の仕方があるとは外国語でも学ばないとなかなか思いつかない。当たり前だと思っていたものが、案外当たり前じゃないかもしれないことに気づくのも外国語を学ぶ楽しみだなと思う。

続編:名詞を使うか、動詞を使うか:「雨が降る」という表現2
posted by ダイスケ at 23:53| Comment(0) | ことば | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年02月04日

言語の美的機能

韻文の作文に思う存分時間配分
たぶん幾分悪文だけど、気分は十分ラッキーセブン

言語は伝達の手段であると言われることがある。何か言いたい内容がまずあって、それを表現するためにちょうどよいことばを当てはめる。たとえば、年賀状を書いている人が「去年はお世話になりました」と「昨年はお世話になりました」のどっちにするか悩んでいたら、意味は同じだからどっちでもいいのにと思うかもしれない。そのようなときには、伝える内容に対して、たまたまふたつの手段(「昨年」と「去年」)があると捉えられている。何かを伝える手段としての言語の側面は「実用的」機能と呼ばれる。実用的機能に着目すると、表現方法は内容に従属しているように思える。

一方、表現方法が内容よりも重要になることもある。早口ことばの「隣の客はよく柿食う客だ」は「隣の客は頻繁に柿を食べる客だ」などと言い換えてしまったら、まったくおもしろくなくなってしまう。実際にそんな客がいるかどうかはあまり問題にされない。その響きが大切なのだ。ことば自体のおもしろさや美しさを担う側面は、言語の「美的」(あるいは「詩的」)機能と呼ばれる。

このように書くと、実用的機能と美的機能はかけ離れたものだと思うかもしれない。たしかに新聞や報告書などの文書で美的機能を見つけるのは難しいだろうし、ことば遊びやナンセンス詩の価値は実用的機能を犠牲にした結果だといえる場合もあるだろう。

しかし、実用的機能を果たそうとして生み出した文が偶然美的機能を備えていることもある。「きのう、めっちゃ抹茶飲んだ」などと言われたら、言った本人は何とも思ってなくてもツッコミを入れたくなる。奇抜さはなくても「この構文の論文の例文の半分は英文です」は心躍る響きがある。美的機能は、コピーライターや詩人だけのものではなく、もっと身近なものである。

読まなきゃいけない論文あるのに、つい30分も時間をかけて冒頭の文を作ってしまったけど、そんな美的機能を楽しむ余裕があってもいいんじゃないかな、なんて思ったり。

参考文献
池上嘉彦. 1984. 『記号論への招待』 岩波新書.
posted by ダイスケ at 05:23| Comment(2) | ことば | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年02月02日

『英語青年』と『Web英語青年』

この頃、時間があると雑誌『英語青年』のバックナンバーを読んでいる。

『英語青年』というのは、英語学・言語学、英米文学、英語教育など幅広く英語を扱った雑誌で、短めの論文、国内外の学界の動向の紹介記事、英文和訳・和文英訳の添削コーナーなどがあった。創刊は1898(明治31)年で100年以上続いた歴史ある雑誌だが、2009年から紙媒体の発行をやめてウェブのみの『Web 英語青年』となった。出版社は研究社。

『英語青年』という雑誌は前から知っていたが、掲載される論文はどれも3ページぐらいでちょっと物足りない感じがするし、文学系の記事も多かったからそれほど見ることもなかった。だから、ウェブに移行したこともすぐには気づかなかったし、言語学の情報を得る媒体のひとつがなくなるのは残念だなと思う程度だった。

最近になって気づいたのは、『英語青年』は毎号組まれる特集が良かったのだなということ。大きなテーマのもと、6人ぐらいの研究者がそれぞれの専門を生かした記事を寄せているのだが、ひとつの現象や作家に対して多様なアプローチがあることに気づいたり、異なる専門分野の発展を知ったりするよい機会になっていたと思う。一本一本の記事が短い分、いろいろな人の記事に触れることができる。

今も『Web英語青年』として残ってはいるものの、特集記事はなくなってしまった。だから、『Web英語青年』への移行は媒体の変更と規模縮小だけでない質的な変化を伴っているといえる。バックナンバーでおもしろい特集を見るたび、もう特集が組まれないかと思うと残念な気持ちになる。
タグ:英文科 日記
posted by ダイスケ at 02:08| Comment(0) | 日々の出来事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする