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2010年08月27日

サンプルとしての言語

塾で英語を教えていて、授業が単調になってしまったかな、ちょっと仕切り直しが必要かなと思ったときには、例文の内容についてコメントすることがある。

たとえば、John loved Mary.という例文があったとき、「あぁ、じゃあ今はJohnはMaryのことを愛していないんだね。Johnは今ごろ、昔はよかったなあと懐かしんでいるのかもしれないね」のように。生徒によっては(そのときのコメントのセンスにもよるが)、クスッと笑ってくれて授業のアクセントになる。

語学では、例文はあくまでその言語を学習するためのものであって、何かその文そのものにメッセージ性があるわけではない。例文はあくまで「例」(あるいはサンプルと言ってもよい)であって、何かを伝えるためにだれかが言ったり書いたりしたものではないのだ。だから、John loved Mary.という例文のJohnがだれなのかわからなくても気にしない。

これは、語学における例文はコミュニケーションの中に位置づけられたものではないことを意味する。だからこそ、その文の内容に気を取られないで(?)、文法や語法などに注意を向けることができる。

だが、これは私たちが普段言語に対してもっているような関心とはちがう。普通ならば、Johnがだれなのか、JohnはMaryとはどのような関係なのか、だれがどんな場面で言ったセリフなのかということが気になるはずだ。その意味で、語学の勉強においては、言語をサンプルとして扱うという特殊な前提をもっているといえる。

冒頭に挙げた例文の内容に対してコメントするというのは、教える立場なのに暗黙の前提に背いていることになる。生徒がおかしいと思う理由のひとつは(おかしいと思ったとして)、ここにあるのではないだろうか。

外国語を勉強していてどこかストレスがたまるとしたら、このような前提を押しつけられていると感じているからかもしれない。生徒を笑わせられるかどうかはともかく、このような関心のずれについて認識しておくのは重要だと思う。

参考文献
Widdowson, H. 2007. Discourse Analysis. Oxford University Press.
ラベル:英語教育
posted by ダイスケ at 01:21| Comment(0) | 学習・教育 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする