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■大学芋はなんで「大学芋」という名前?「大学」+「芋」=「大学芋」と単純にはいえない。そう考えると、ことばには不思議がいっぱい。「大学芋」をきっかけにことばについて考えるブログです!
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2010年04月22日

新しい生活

大学院の入学式から2週間。

大学院生としての生活はどう?と聞かれることもあるけれど、なんだかバタバタしていて「大学院生ってこんな感じ」というのはうまくことばにできない。
ぼくの場合、昨年の9月と今年の2月に大学院の試験に落ちているので、一時期は大学院生になれないことも考えていた(もちろん受かるつもりで勉強はしていたけど)。
3月の試験でやっと受かったので、それからまだ一ヶ月半しか経っていない。
目まぐるしい変化があって、なんだか落ち着いていられないが、今大学院生としてこうしていられることには、ただただ幸せを感じている。

大学院生になってのうれしい誤算は、文学系の人と仲良くなったことだ。
ぼくはいわゆる英文科というところにいるのだが、そこには英文学、米文学、英語学(言語学)の3種類の研究会が用意されている。
ただ、文学と言語学は同じ英語を扱っていても、関心も方法論も大きくちがっており、互いの学生が授業でいっしょになることもあまり多いとはいえなかった。
院生になっても授業でいっしょになってはいないが、院生用のスペースで会ったりして、なにかと交流する機会がある。
それがうれしくて、思わず修士1年生用のメーリングリストもつくってしまった。
今後お互いの関心や得意分野の話をしていけるかと思うと楽しみ。

ちなみに、今年は学部設置の英文学の授業にもひとつ出席することにした。
今まで言語学と教職の授業で手が回らなかったが、やっとそういう機会がめぐってきたような気がする。
英詩の授業は初めてだが、とても新鮮だった。
専門家が「自分がおもしろいと思っていること」を話しているのを聞くのは、やっぱりおもしろい。

全体的に、ちょっと欲張った時間割にしてしまったかもしれない。
学会にも応募したいし、自分のキャパシティを広げていく1年にしたい。
タグ:日記 英文科
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2010年04月09日

The Process of Communication Accommodation

今回は、Communication Accommodation Theory(以下、CAT)について扱っている文献を紹介する。

Giles, Howard. 2009. "The Process of Communication Accommodation." In Nikolas Coupland and Adam Jaworski (eds.), The New Sociolinguistics Reader. 276-286. Palgrave Macmillan. (chapter 19)

著者のGiles氏は、場面に応じて自分の話し方が異なることに気づいた。
それはことばづかいに一貫性がなく、恥ずべきことなのだろうか。
そうではなく、人々は戦略的に、効果的に話し方を変えているのではないだろうかと考え、彼はCATの着想を得た。
Giles氏がもともと社会心理学を専門とすることもあり、CATは言語だけでなく、声の調子、非言語などを含む学際的研究として注目を集めている。

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But we now know that this claim of sociolinguistic consistency is simply false, and that we all are, to varying degrees, sociolinguistic chameleons, but strategically and often usefully so. (p. 277)

私たちはどんな場面でも一貫した話し方をしているというわけではなく、相手や状況によって戦略的に、自分にとって有益になるように話し方を変えている。会話の参加者が、お互いのコミュニケーション上の差異をなくそうとしたり、逆に広げたりしようと調節する過程をアコモデーション(accommodation)という。まったく別の言語にスイッチする場合から、同一言語の文体の変更、語彙の選択までさまざまなレベルで観察される。

アコモデーションには、自分を受け入れてもらいやすくするために聞き手の話し方に合わせる収束(convergence)と、自分の聞き手とのちがいを強調し聞き手と距離をとる拡散(divergence)がある。CATの課題は、人々がなぜ、そしてどのように収束したり拡散したりするのかを解明することにある。

収束することでコミュニケーション上の類似性を高めると、たとえお互いのことをよく知らない初対面の相手でも、相手の反応も見越すことができる。会話における不安が軽減され、満足感が増す。また、収束は相手に自分のことをわかってもらう上でも有効である。たとえば、医者が患者に専門用語を使わず一般的なことばで説明することで、患者の理解は深まりすすめられた治療法に従うようになる。さらに、患者の感情面にも効果がある。

収束する上で重要なことは、話し手は、聞き手が望んでいると話し手が想定した会話のスタイルに合わせるのであり、主観的には収束のつもりでも客観的には拡散をしてしまう場合があることだ。高齢者へ話しかけるとき、ありがちな高齢者のイメージに基づいてゆっくりと簡単なことばで話しかけたとする。相手への好意のつもりであったとしても、活動的で認知的にも衰えのない人にとっては、恩着せがましく屈辱的だと受け取られるかもしれない。相手に合わせようとしすぎるとかえって失敗してしまうこともあるのだ。

相手との差異を広げる拡散は、相手にとって否定的な印象を与えることになるが、自身の社会的アイデンティティを維持したり強調するという積極的な意味合いがある。少数民族の言語復興運動(多数派の言語からの拡散)や、若者ことばの創造(大人のことばからの拡散)など、拡散も幅広く行われ、言語とコミュニケーションのあり方を変えうる力ももっている。

結局のところ、満足のいくコミュニケーションには、収束(コミュニケーションをする意志を示すこと)と、拡散(自分の属する集団のアイデンティティを健全に示すこと)の絶妙なバランスにかかっているようだ。この理論はまだ言語と談話の詳細を十分に明らかにしているとはいえないが(それは言語研究とは異なる分野で生まれたことにもよる)、社会言語学にかかわる現象、過程やコンテクストを解明する可能性はすでに認められ、今後はさらに利用されていくはずである。

*****

自分と同等の立場の初対面の人が「です」「ます」口調をやめてタメ口で話してきたとしたら、それに応じる(収束する)だろうか、応じないだろうか。
携帯電話のメールにおける文体と絵文字は、相手によって使い分けているだろうか。
収束・拡散を視野に入れて振り返ってみるのも、おもしろそうだ。

参考文献
東照二. 1997. 『社会言語学入門: 生きた言葉のおもしろさにせまる』 研究社.(4.2節)
橋内武. 1999. 『ディスコース: 談話の織りなす世界』 くろしお出版.(第14章)
posted by ダイスケ at 00:37| Comment(0) | 言語学の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月02日

「紙を印刷する」ことはできるか? ― 結果目的語の話3

結果目的語の話も今回で完結。
目的語いろいろ ― 結果目的語の話1
「お湯を沸かす」から「水を沸かす」へ ― 結果目的語の話2

「お湯を沸かす」という行為の〈結果〉を目的語に取る(結果目的語を取る)動詞が、新たに「水を沸かす」という行為の〈対象〉を目的語にとるようになった。
同じことが他の動詞にも当てはまるのではないだろうか?
今回注目するのは「印刷する」である。

「印刷する」と聞いてすぐに思いつくのは、「新聞を印刷する」「年賀状を印刷する」のようなに結果目的語を取る用法である。
印刷する際、働きかける対象は何かといえば「紙」だろう。
そこで、考えられるのが「紙を印刷する」という言い回しだが、多くの人はどことなく不自然という印象を受けるか、あるいは誤用だと考えるかもしれない。

たしかに、「紙を印刷する」というのはあまり一般的な用法ではないと考えられる。
しかし、次のような例は違和感なく受け入れられるのではないだろうか。(下線は筆者)

(1)
a. 用紙を変更後に印刷すると、余分な紙を印刷する

b. そして、紙は通常のコピー用紙なら何でもかまいません。これまでと全く同じ感覚で自動読取可能な紙を印刷することができます。

c. 小さい紙を印刷するときはどうすればいいですか

d. オフィスの紙を減らすだけならば、より簡単な方法もある。紙を印刷する際には必ず両面印刷する。これならオフィスで必要な紙の量を大幅に削減できる。
MSN「MSNデジタルライフ ― 無駄なファイルを減らしてオフィスのエコを実現せよ」

これらを見ると、「紙を印刷する」という言い方がおかしとは、必ずしもいえなくなる。
(1)の容認性を高めているのは、「水を沸かす」のときと同じく「紙」に対する修飾語句があることや((1a-c))、すでに「紙」が話題に挙がっているという文脈((1d))だと思われる。
どちらの場合も、印刷することによって何が作り出されるかは関心になく、紙そのものに働きかけるという側面が全面に押し出されていることがわかる。

このように、私たちは自らの捉え方に応じて、ことばを使い分ける。
結果に着目した動詞と思われているものでも、行為の対象を目的語にとりうるのだ。

文法の話というと、あることばづかいが正しい、間違っているという話になりがちだが、「『紙を印刷する』も使うのだから、辞書に載せろ」とか、「いや、これは単なる誤用だから、すぐにやめるべき」といった二元論で片づけてしまっては、もったいないような気がする。

どんなときにそのような言い方が可能なのか(より受け入れやすくなるのか)、それはなぜなのかを追求していくことで、ことばのいろいろな側面がわかってくるはずである。

単純な正誤で片づけられないのは、もやもやして落ち着かないという人もいるかもしれないが、そのもやもやにこそおもしろさがあるのだと思う。

参考文献
足立公平. 2004. 「ヲ格と道具目的語」 山梨正明ほか(編). 『認知言語学論考No.3』 ひつじ書房.
池上嘉彦. 1995. 『〈英文法〉を考える』 ちくま学芸文庫.
北原保雄(編). 2002. 『明鏡国語辞典』 大修館書店.
国広哲弥. 2006. 『日本語の多義動詞』 大修館書店.
栗栖佳美. 2006. 「結果の目的語を取る動詞についての通時的考察: 『ワカス』『ニル』『ホル』を例として」 『広島女学院大学国語国文学誌』36: 33-52.
Jespersen, Otto. 1992. The Philosophy of Grammar. University of Chicago Press.
posted by ダイスケ at 00:52| Comment(0) | ことば | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする